デイホーム

デイホーム 土屋

鈴木貴博

真駒内(まこまない) 管理者 / 生活相談員

福祉とは『誰もが、誰かが、幸せだったり、安心だったり、安定を得るために必要な権利』。
誰しも、福祉にどこかで触れている。

 《interview 2023.4.1》

北海道・札幌にあるデイホーム土屋 真駒内(まこまない)で管理者・生活相談員を務める鈴木貴博。豊かな自然の中で育った鈴木は、自身もまた北海道の大地のような懐の大きさで、デイホームに集まる、クライアントやスタッフたちを見守っています。今に至るまでに、自身の葛藤や、内省があったという鈴木。デイホームの“雰囲気”そして、彼の柔らかな“空気感”を尋ねます。

CHAPTER1

豊かな自然に囲まれたデイホーム土屋 真駒内――野鳥や狐、ときどき熊もやってきます

デイホーム土屋 真駒内の周りは自然がたくさん。自宅に居るような雰囲気の中で過ごせるような空間。

鈴木「デイホーム土屋 真駒内の周りは自然も多く、春から秋にかけて、餌を撒くと野鳥が飛んできたり、狐もその辺で見れたり。山も近いので、熊の目撃情報が出ちゃうこともあります(笑)。

事業所は、一般的な住宅をお借りして行なっている、定員10名の『地域密着型通所介護小規模』のデイサービスです。自宅に居るような雰囲気の中で過ごせるような造りになっていて、段差もほぼなく、車椅子の方でもゆとりを持って移動できるようになっています。宿泊サービスもしていて、ご希望があれば、利用したい時にご利用できるようになっていますね」

利用者の方は現在13名。80代から90代の方たちが中心ですが、2022年M&Aにより株式会社 土屋の仲間になる前には、「70代の方も、100歳を超える方もいらした」そうです。

インタビューの数日前には、節分のレクリエーションを行なったそう。「自ら鬼に扮した」と聞きましたが……

鈴木「豆まきは笑いに包まれて、僕自身も全力で鬼になりました(笑)。実は、北海道の豆まきは、落花生を投げるんですよ。丸い大豆じゃなくて、殻付きの、あの瓢箪型の落花生です。それから、包装されたボール型のチョコも。

豆まきの時は、みなさん容赦なく僕の顔に落花生を投げてくれました(笑)。利用者の方の中には、急に殻をむいて初めて食べ始める方もいたり……最後は記念撮影をして終えました。デイホームでは、『投げる』という動作をする機会自体、滅多にないですよね。だからなのか、職員に対して思いっきり発散ができて、利用者の方も楽しかったと思います(笑)」

では、利用者の方に人気のあるレクリエーションにはどんなものがあるのでしょうか。

鈴木「一番はカラオケです。みなさん歌うのが大好きで。レパートリーは、石原裕次郎が断然強いですし、美空ひばりも多いです。画面に歌詞も出るので、最近はマイクを持たなくても、その場でみんなで歌ってます。

カラオケの機器は、カラオケだけでなく、体操の映像やビンゴゲームもできたり、昭和初期の白黒の映像も流せるようにできているんです。例えば、札幌には、さっぽろテレビ塔という建物があるんですが、テレビ塔建設中の様子や、他にも(1964年の)東京オリンピックの頃の東京タワー建設の映像等、当時の映像が流せるので、みなさん喜んで見ています」

24時間365日、年中無休でサービスを提供するデイホーム土屋 真駒内。スタッフは日勤・夜勤合わせて総勢11名。

鈴木「スタッフは40代、50代以上が中心で、今、30代が僕を含めてもう一人。みなさん人生経験が長くて、落ち着いた雰囲気の人たちばかりです。本当に頼れるスタッフで、いつも僕が甘えさせてもらっています。

そういえば、先日、50代のスタッフから『鈴木さん、私と同い年の空気がしてた。なんか勘違いしちゃってごめんね』って言われました(笑)。僕は今33歳なんですが……まぁ、そこまで近くに思ってくれてるならいいかな、と思っています(笑)」

CHAPTER2

いい時も、ダメな時も。それぞれに、みんなで、ひとつのものをつくっていた大学時代

鈴木は、北海道東部の中標津(なかしべつ)町に生まれます。

鈴木「中標津町は、人口よりも牛が多いような酪農地域。春になると、肥料の匂いが漂ってくるような町です。空港もありますが、海までもすぐ。知床まで1時間、海まで行くと北方領土が見える、そんな町です。
自然も豊かで北海道の中でも盆地になっているので、夏は暑い時は30度を超えるんですよ。冬は寒い時でー20度まで下がります。夏と冬の寒暖差が50度ぐらいあって、本当に暑いし寒いし……という場所でした」

父と母、妹の四人家族の中で育ったという鈴木。

鈴木「小さい頃から穏やかで、周りの一歩後ろをゆっくり歩くような性格でした。大学の時には、本州出身の人から『 “北海道”のような人だね』と言われたこともあります(笑)
幼少期は人見知りが激しくて、誰かと遊ぶのが得意ではなかったので、いつも母親や妹と一緒に遊んでましたね」

小学校から高校までを中標津町で過ごした鈴木。大学入学時に地元を離れ、札幌へ向かいます。

鈴木「高校の時の教師が、札幌市内の大学の福祉科の卒業生で、『あの先生の後輩になりたい』というわけのわからない選び方で進路を決めました(笑)。若気の至りじゃないですが。でも結果、その大学を落ちて。

福祉科に進むことは周りにも話していたので、『札幌の近くの別の大学にも、福祉科のある学校があるよ』と教えてもらって、そこを受験して入学することになったんですね。

でもそう言いながらも、実は僕は、福祉には興味がなかったんです。当時、将来やりたいことが明確になくて、目標もないまま、ただただ先ほどの理由だけで大学に進みました」

そして始まった大学生活。鈴木はすぐに「考えが甘かった……」と感じたと言います。
その中で、鈴木が出会ったのが大学祭の実行委員会というサークルでした。

鈴木「大学祭を実行する委員会に、入学から卒業までの4年間ずっと関わっていました。そのサークルの中で上下の人間関係や、つながりが自分にとっては大事だなと思えたんです。もちろん勉強もしなきゃいけないと思ってはいたんですが、その関係性は、学部内の授業やゼミでは経験ができないものでした」

「実は委員会の活動に熱中しすぎて、単位もギリギリで。大学の卒業が決まったのが2月、3月。卒業の直前だったんです」と話す鈴木。

実行委員という場で、それぞれに光る“何か”を持った人と出会います。

鈴木「委員会の中にはいろいろな班があったんですよね。イベントの企画を進める班やお金に携わる班があったり。その中で、会場を設営する班があって、僕はその班に属していました。例えば模擬店を出す学生の管理や会場の配置決めーーステージはここで、模擬店はこういう並びで配置して、ゴミ箱はどこに設置するとか、発電機は何ワットまでしか使えないとかーーそんな細かい計算まで全部やりました。

僕は同じ学科に仲のいい友人がいなくて、他の学科の人と仲良くなることが多かったんです。その大学には建築学科もあって、会場設営の地図の線を引くのが上手い人に『おーっ、すごい!』って驚いたり、美術学部で絵を描くのが上手な人には『大学祭の絵を任せよう』とお願いしたり。そのやり取りが本当に楽しかったですね。みんなON・OFFのメリハリがとても上手で、やる時はやるんですけど、ダメな時は本当にダメな人たちでした(笑)。

でもその空気感は全然嫌いじゃなくて。やれる時にやる集中力を持っているのはすごいな、と思ったんです。僕自身は真面目で、“いつでもビシッと一本道”みたいな感じだったので、それぞれに様々な特技を持った人たちと出会って、いい時も、ダメな時もありながら一緒にひとつのものをつくっていくことはすごくいい経験でした。『こういうことができたら、もう少し自分の中にも余裕ができるんだろうな』って思いながらやっていましたね」

CHAPTER3

福祉の現場で、気づけば11年。振り返った時に見えた“夢中になっていたこと”

その後、“なんとか”大学を卒業できたという鈴木。

卒業後は、すぐに就職をせず、「1ヶ月何もしなかった」時期があったと言います。

鈴木「急に、福祉のことに冷めてしまって。卒業して1ヶ月間、『自分は特に福祉に興味があったわけではない』という入学前の思いが急に蘇ってきたんです。サークルで過ごした時間の長さや密度が、自分の中にあった考えを変化させたこともあったと思います。

だから、就職先も福祉にこだわる必要もないのかなと考えて。でも、他の職種の面接に行ったところで、『福祉の学科を出たのに、なんでうちに来たの?』なんて言われるわけです。そこで『僕は福祉に興味が持てなくて、この会社を受けに来ました』なんてネガティブな理由も言えず、面接の時にも自分の考えを言ってなかったんですよ。なんかこう……出来上がった言葉をただ読み上げるような感じでした。やっぱりその辺は相手にも伝わっていたんでしょうね。

今なら『そりゃ、そうだよな』って思います。自分自身がデイサービスで10年働いて、いろんな人からの意見や声を聞く時に、自分の本当の思いと実際に口にしてる言葉が一致しているか、それがうまくいかない感じでしゃべっているか、ということを人にも自分にも感じるようになりましたから。

でも一回、大学を卒業をして、1ヶ月経った頃、結果として、大学時代の先輩から今の仕事のお誘いがあったんです。それでデイサービスで働き始めることになって。『結局、福祉に戻ってきちゃった』んですね(笑)」

そして、気づけば11年。振り返ると、見えてきた景色がありました。

鈴木「当時は、『今の若者は入社してもすぐ辞める』なんてことが世間で言われていて、まさに自分に言われてるような気がして嫌だったので(笑)、『とりあえず3年、5年は頑張ろう』と決めました。

僕は途中で投げ出すことが嫌いだったんです。最初は生活相談員として働いていたんですが、2年ぐらい経つと責任の伴う仕事も増えてきて、やりがいを感じました。そのタイミングで『新しい事業所がオープンするから、オープニングスタッフになってほしい』と声をかけられたり、その後も管理者に抜擢されたり。仕事に慣れてきて、落ち着いてきそうだな……というタイミングで変化があるような状況が続きました。その都度、『途中で投げ出すのは嫌だから、落ち着くまでは頑張ろう』と続けて、気付いたら11年。なんだかんだ福祉の仕事に夢中になっていたんです。

他の業種で転職にチャレンジしてみるのも一つかなと考えた時もありました。でも、辞めるのももったいないし、それだけ職場環境も良かったし、人と出会うのが楽しすぎて。一歩踏み出す勇気も必要だったのかもしれないのですが、でも今は、この場所で働いて頑張っていきたいと思ってます」

CHAPTER4

最短距離を行くんじゃなくて、ちょっと寄り道をして。遠回りもいいかな

一人でいる時間があると昔を振り返り『あの時、こうしていれば……』と考え込んでいた10年前

鈴木「今はそうでもないんですが、10年ぐらい前までは、一人でいる時間があると昔を振り返って、『あの時、こうしていれば……』なんてことをしょっちゅう考えていたんですよ。寝る前、暇さえあれば。

そんなふうに色々振り返っていた時に、大学を落ちた時のことを『今まで割と自分の思い通りに進んでいたんだな、周りのサポートがあって今、こうして進めているんだな』とは思えたんですが、ずっとどこかで、自分の思い描いていた道に行けなかったことにショックを受けていたことにも気づきました。

第一志望の大学に合格していたらまた違ったかもしれません。でも、そうならなかったことで今、自分がこんな雰囲気が出ていることも、こうして働いて、こうしてインタビューを受けてることも、もしかしたらなかったのかもしれない。そう思ったら、不合格も悪いものではないな。もしあの時合格していたら、人生にとってはプラスになる部分もあったかもしれないけれど、大人になりきれない部分があったかもしれない。大学に落ちたことが人生の糧になって、今の自分のこの人間性が培われてきたんだと思います」

インタビュー当初、鈴木はこんなふうに話していました。

鈴木「僕自身、遠回りしてもちょっといいかなと思う時もあって。人生において最短距離ばっかり行くんじゃなくて、ちょっと寄り道して。ちょっとでも自分のプラスになるように、行ければいいかなと思っているんです」

じっくり時間をかけ、ままならない現実を抱きしめてきた鈴木。

鈴木「今は、自分が好きです。好きって言ったらなんかあれですけど、嫌いではないので。自分でよかったかな」

CHAPTER5

「伝える」「伝わる」ってどういうことだろうーー“現場”は一番の教科書

大学では、新しい友人たちとの出会いを通して、ともに何かをつくっていく“現場”の豊かさを知った鈴木。

そして、働き始めたデイサービスでもまた、“現場”の出会いの豊かさに気づいたと言います。

鈴木「とにかく現場が新鮮に感じました。大学の教科書にはないことが毎日起きて。似たようなことがあっても、それが完全に毎回同じことではなくて、ちょっとした表情の違いだったり、こちらが発する言葉のトーンの違いでこうも変わるのか、と感じたり。

入社した当時に出会った上司や同僚は『そのまま年を取っていくのか、お前は』とか『社会に出たら人はどう考えるべきか』ということを言ってくれた方たちでした。正面から『5年後、10年後、お前はどんな人になりたいのか』と問われて、考える時間をもらえたことも大きな経験になったと思います。今も、『現場が一番の教科書だな』というのは感じていますね」

そんな鈴木に、「人との関わりの中で大事にしていることはなんですか?」と尋ねると、返ってきたのは「この、空気感」という答えです。

鈴木「デイサービスというのは、限られた時間や空間の中で、それぞれの利用者の方がその時必要なサービスを伺わなければいけません。その中で大事なのは、いろんな病気や、認知の症状をお持ちの方がいて、そのみなさんに、楽しく来てもらって、楽しく帰ってもらうことなのかなと思います」

鈴木と話していると、どこかホッとするような安心感に包まれます。
彼が持つ“空気感”、そしてデイホーム真駒内という場の“空気感”はどこか重なっているのでしょう。

鈴木「僕自身は、20代までは『とにかく楽しければいい』『揉め事さえ起こさなければいいかな』という考えが基本にありました。例えば、優しい言葉だけ、余計なことは言わないようにしていた時期もあったんですが、私生活で結婚をして、子どもが生まれて、となった時、やっぱりそうはいかない。優しいだけじゃ相手の為にならないこともあることに少しずつ気づき始めました。

その頃から、相手のためになるような言葉選びをするようになりました。ダメな事は何がダメなのかを伝えないといけないし、事実を正しく伝えないといけないこともあります。その時、相手の表情や考えていることを観察したり、想像したりしながら、どの言葉をどう使って、どう表現して、どの表情で、どのタイミングで言い出すか。『相手に理解してもらえなかったら意味がないんだ』というところまで考えて、意識して、場をつくるようになったんです。

これまで、利用者の方とも何度か話し合い(元々は言い合い)をしたこともあります。もちろんお客様でもあるのですが、僕の中で『この人は、伝えたらちゃんと対話ができ、理解をしてくださる方だ』ということを、さまざまな背景を踏まえて判断した上で、『それはこうではないか』と伝えていました。

とはいえ、まだ引き出しが少ないので、言葉に詰まることもありますが、これでも結構、喋れるようになってきたんですよ(笑)。働き始めた頃は、上司からよく『止まるな、なんか喋れ』なんて言われていましたね(笑)」

CHAPTER6

福祉って誰の中にもある「誰かのために動く」心のことーー家では奥さんと子どものために。職場ではクライアントやその家族、スタッフのために。時々、自分のためにも。

困った時に、なんでもすぐ言ってくれるような関係をつくっていきたいし、今のこの雰囲気も継続していく。利用者の方の楽しそうな顔をみれるように。

鈴木「今、一番やりたいことは外出レクリエーションです。コロナになってから、本当に何もできていなくて。外に出て何かをすると、利用者の方の本当に楽しそうな顔が見れますから。雪が溶ける頃には状況も落ちついてきそうなので、なんとか外出したいですね。

スタッフ同士では『スタッフ同士の会話が途切れない事業所にしたいな』と思っています。でも、まずは僕自身から、スタッフに日頃、起きたこと・聞いたこと・見たことを常に発信するようにしてます。もちろん業務的なこともですが、道路状況やこの後の天気がこんな感じ、こんなニュースをやってた等、大事なことからたわいのないことまで話して、会話を増やしたらスタッフから発信してくれることも増えてきました。

会話のしやすい環境づくりをすることで、事業所の中の連携もうまくいくし、雰囲気も良くなってくる。何より、その雰囲気は、クライアントの方たちに伝わるので。困った時に、なんでもすぐ言ってくれるような関係をつくっていきたいし、今のこの雰囲気も継続していきたいですね」

空気感や雰囲気という目に見えないものを、コツコツと仲間とともにつくりあげてきた続けてきた鈴木。
最後に、尋ねました。福祉ってどんなものですか?

鈴木「誰もが、誰かが、幸せだったり、安心だったり、安定を得るために必要な権利――という言い方をしたらちょっと違うかもしれないですが、心の部分、真心なのかな。

例えば僕だったら、家では奥さんと子どものために。職場ではクライアントやその家族、スタッフたちのために。時々、自分のご褒美のために動くことだって福祉です。福祉という言葉を聞くと、公的なサービスの方を思い浮かべますが、誰かのために動くこと。そう考えれば、誰しも、福祉にどこかで触れている。意外とすぐそばにあるものなんじゃないかなと思います。

そこが入り口で、そこからいろんなサービスや公的な制度ができあがっていて、僕自身も社会保険に入れてもらって、保険証をもらって病院に行くことができる。そういうことですかね。うまくまとめられないですけど(笑)」

休日は、小学校2年生になる娘のためにドライブに出かけたり、「雪の妖精と言われるシマエナガという鳥のグッズを探して、街中を走り続けてます」と嬉しそうに話す鈴木。

デイホームで働く日も、お休みの日も。誰かのために、そして時々自分のために動く鈴木のそばには、ちいさな幸せがあふれています。


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