介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

澤田由香

北海道・東北ブ ブロックマネージャー

この時代、これからの時代も『手に職を付けるなら介護』、『安定した仕事なら介護』。
それと同時に『感謝してもらえる機会が多い仕事』。

 《interview 2022.11.08》

二度のくも膜下出血から生還した澤田由香。
昏倒する意識の中で、澤田の中に沸き起こった「私は生きる」「このままでは終われない」という一念が、彼女を再び「この世」につなぎ留め、生かします。
はた目から見ればジェットコースターのような半生を、どこか淡々と、そしてエネルギッシュに語る澤田は「生きて」何を見つめ、何を成そうとするのか。その視線の向くところに迫ります。

CHAPTER1

「よどみ」と「ながれ」。分厚いガラスの窓の中から

1974年生まれ、北海道札幌市出身の澤田由香。3人の男兄弟に挟まれた彼女は、活気あふれる祭り(北海道神宮祭)のさなかに生まれたせいもあってか、お転婆な少女時代を送ります。

中学では硬式テニス部に所属し、高校では行事に積極的に参加。マラソン大会で優勝したことも。そんな澤田が幼少時代に記憶に残っているのは、なんと隔離生活でした。

澤田「小学校に入学する頃、家族でスケートに行ったんですが、そこで私と弟がコレラ菌に感染してしまったんです。それで2~3か月、山奥の施設に隔離されました。一人病室の中にいて、分厚いガラス越しに両親と面会したのを記憶しています。それもあってか、めったに風邪もひかず、身体が強かったのかなって(笑)」

そんな彼女の夢は看護師。けれど高校進学に当たり、両親に相談したところ、思いがけない言葉を掛けられました。

澤田「父から『由香、よく考えなさい。お前は人を助けるんじゃなく、一歩間違えたら救えない可能性があるから、看護師には向いてない』ってはっきり言われたんです(笑)確かに私はおっちょこちょいですが、親がダメだというなら看護師にはなれないので、進路先は悩みましたね」

事業をしていた父の勧めもあり、澤田はしぶしぶ経理の道を選ぶことに。

高等専修学校の経理課に進み、経理の資格を取得します。卒業後は地元の石油会社に就職し、経理業務に携わります。24歳で結婚し、その後、退社。1999年に女の子を出産します。

澤田「娘が生まれた時は嬉しかったですね。ただ、身体が弱い部分もあったんです。あと、当時周りから良くダウン症を疑われる様子があって、病院に連れて行って検査したりと、悩んだ時期もありました。結局その疑いも晴れ、育つにつれ身体も健康になってくれて、大変なことももちろんありましたが、楽しく子育てしていました」

ご主人が事業を行っていたこともあり、一人で子育てをする時間が多かったという澤田。

一方、専業主婦でいることに物足りなさも感じ、働きたいという思いが強くなってきた彼女は、少しずつ外に出てパートで経理や事務を始めます。けれど娘が中学を卒業するころ、父親が他界。親戚等で亡くなられた方は多々いたものの、その時は暫く現実を受け止められなかったと言います。

澤田「父の死で、私自身、とても気持ちが落ち込みました。残された母も心配で。同じ頃、夫婦の関係性も良くなくなってきてしまい、子どもの前で喧嘩ばかりするのもと、思い切って離婚しました」

澤田は娘と実家に戻り、母、そして介護を必要とする叔母と共に生活を始めます。

CHAPTER2

「あたし、身体を動かしたい。」そして出会った重度訪問介護

実家に戻った澤田は、社員として事務職に就職。仕事、子育て、叔母の介護と忙しい日々を送ります。

澤田「叔母(現在95歳)は、『施設には入りたくない』と言うので、今に至るまで在宅で介護を続けています。自分できちんとトイレに行ったり、食事も食べますし、買い物にも一緒に行きますが、やっぱり排泄時は汚れてしまうこともあります。なので、トイレ掃除や入浴介助を、今でも毎日キーキー言いながらしています(笑)」

そんなある日、澤田の身に異変が。

澤田「くも膜下出血で実家の目の前で倒れたんです。42歳の時でした。足の動脈からカテーテルを入れて、破裂したところをコルクで止めた形で、1か月半くらい入院しました。たまたま後遺症もなく職場復帰できましたが、娘ももうその頃は高校生になっていたので、休日を持て余すようになったんです」

澤田は、何気なく探していた求人広告で、介護の仕事を目にします。

澤田「自分も叔母の介護をしているし、無資格未経験でもできるということで、やってみようかなと。今まで経理や事務をしていましたが、本当はじっと座っているのは性に合ってなくて、身体を動かす方が好きなんです」

2018年2月、仕事の傍ら、澤田は非常勤パートとして介護の世界に足を踏み入れます。しかしそれは、高齢者介護とは異なる、障害者への「重度訪問介護」でした。

CHAPTER3

父の言葉の向こう側に、私の「続けられる仕事」があった

重度訪問介護業界で働き始めた澤田。当初は驚いたと言います。

澤田「これまでの人生で、障害を持っている方と接することがなかったので、初めはすごく衝撃を受けました。最初の支援先が重症のリュウマチの方で、『どうしてこんな手の形なんだろう』『どうして足がこんな風に曲がってるんだろう』『なんでこんなに腫れ上がってるんだろう』と。そういう驚きが沢山ありました」

2件目のALS(筋萎縮性側索硬化症)のご利用者の支援では、口文字等を使うコミュニケーションにも衝撃を覚えたとのこと。澤田は驚きつつもどこか、「この仕事を続けられる!」と実感。それは、自身の大病の経験によるものでした。

澤田 「くも膜下出血になったとき」、『これはまずいな』と、とっさに思ったんです。経験したことがない痛みがあって、自分の体の中ですごいことが起きていると思った瞬間に呼吸もできなくなり、意識が遠のきました。『もうダメだ』と思いましたね。

でも、要所要所で意識があって、医者や母親の声が聴こえていました。そうしたタイミングで、『まだだめだ。娘にまだ沢山言いたいことがあるし、今ここじゃない』と。だったら、『もうひと踏ん張り頑張るしかない』と。

そういう思いがあったので、同じように病気をして、障害や後遺症を持ってしまった方の力になれることが一つでもあるなら、この仕事を続けたい、続けられる!と思ったんです」

CHAPTER4

言葉や社会性の奥に隠された、「その人の本当の感情」に触れることはあるのか

重度訪問介護のパートを始めて2,3か月後、澤田は本格的に「重度訪問介護の仕事に携わろう」と、事務職を辞め、前職に就職。札幌市の事業所に勤務し、第二の人生を介護職として歩み始めます。
その後、さまざまなご利用者と関わる中で、今でも鮮明に覚えている出来事とは。

澤田「ご家族と暮らしていたALSの女性の方でしたが、ご本人は延命を希望していませんでした。延命拒否の理由は分かりませんが、息を引き取られた日、私は支援に入っていたんです。

ご利用者がもうろうとされて、身体からもいろいろな分泌物が流れ出てきて、最期なんだと悟ってからは、ずっと泣きながらパット交換をしていました。

いつもは痛いとか苦しいとか仰らない気丈な方なんですが、その時、ふと心の内を覗いた気がしたんですね」

そこから澤田は、延命について深く考えるようになったと言います。

澤田「まだ介護の業界を熟知していない時です。『延命をしない』と言う人は病院にも連れていけず、救急車も呼べません。でも一方で、延命拒否は経済的な問題や、家族のためを思ってという人もいらっしゃいます。人って、どんなに親しい人でも、パートナーにでも自分の本心をなかなか伝えられないものです。もし、家族のためにと思って延命拒否をしているのであれば、他に方法はあるんじゃないかなと。

在宅で生活している難病・障害の方も、思いは一人一人絶対に違います。だとしたら、私たちが担っているこの仕事を、ご利用者の思いに沿うように少しでも役立ていきたい。ご利用者が亡くなると、『もっとこうすればよかった』という思いを抱いてしまいますが、その方の人生に一時でも関わることができたのは、すごくありがたいことだと思いますし、後悔しないよう、その経験を次につなげようと常に思っています」

CHAPTER5

人でも会社でも、「生きる」ということは、リスクを見つめ、「共存すること」ではないか

澤田は入社1年後、コーディネーターとなり、管理業務に携わります。

そして2020年10月、前会社を退社し、同じく重度訪問介護事業を行う株式会社土屋に入社。オフィスマネージャーとして働き始めます。

管理者として澤田が思うこととは。

澤田「介護の仕事は、気持ち(言葉がけや行動)も大事ですが、その根底にある「心」がきちんとクライアントと向き合っていないといけません。介助に心が入っていないと、クライアントはすぐに気が付きます。そうすると取り合ってもくれません。

「心」が入ることで、いい関係性ができて、いい介助につながりますが、それをアテンダントに言葉で伝えるには限界があります。けれど現場で経験を積んで、それが分かった時にはとても成長できます。そういう人が、介護業界で伸びていくと思います。

ただ、すごくバランスが難しいところでもあって、一線を越えると依存関係に陥ってしまいます。それは絶対によくないんですが、この部分も教えるのは難しいですね」

CHAPTER6

ヒヤリハットを上げてくれる人は、リスクを察知できる「頼もしい」人
~第4期リスクマネジメント委員会に向けて~

オフィスマネージャーからエリアマネージャーに昇進した澤田。リスクマネジメント委員会の委員長も兼任することになります。

澤田「リスクマネジメント委員会が発足して以来、模索しながら一つ一つ形を作ってきました。当初は戸惑いが大きかったですが、介護現場での事故の話を聞き取りする中で、『アテンダントを守ってあげなきゃいけない』と意識が変わりました。

私も現場に入っていた時は、『こんな時はどうしたらいいのか、誰に聞けばいいのか』と、不安になったこともよくあったので、リスクマネジメント委員会では、そこを主軸に置いて活動してきました。

まずは現場から色んな声を上げてもらい、アテンダントを守る対策を作っていきました。その一環として、『緊急時お守りブック』や『安全規則』などを作成し、非常時にアテンダントが焦らずに対処できるよう連絡網を整え、勉強会を開催しました。

第4期に入った現在は、事故を未然に回避するための『ヒヤリハット報告』をメインに取組み、ホームケア土屋のみならず、他の事業においてもそれぞれが目標を立て、安心安全な職場環境作りに邁進しています」

第4期の主軸となる『ヒヤリハット』とは、「危ないことが起こったが、幸い災害には至らなかった事象」のことで、1件の重大な事故・災害の裏には、300件のヒヤリハットがあるとされています。それを報告できる体制こそが重要だと、澤田は語ります。

澤田「ミスや失敗は、どんなベテランでも、未経験者でも、誰でもしてしまうものです。けれど『責められる』と思うと、ヒヤリハットを上げなくなってくる。でも、それは逆です。小さなミスに気付いたこと、そして報告書を提出すること、それは褒められるべきことです。

なので、まずはヒヤリハットをどんどん上げてほしいです。それによって、大きな事故やトラブルを未然に防ぐことができます。

管理者の方に伝えたいことは、ヒヤリハットの聞き取り対応に十分注意を払ってほしいということです。問い詰めるのではなく、その方の次の支援につなげること。そうすると、アテンダントも報告しやすくなりますし、経験の積み上げにもなります」

当社でも先日、クライアントの他害行為により、アテンダントが怪我を負う事例が。

澤田「知的障害のある方の支援で、アテンダントがクライアントに思いっきり噛みつかれ、かなりひどい怪我を負いました。アテンダントはSOSを発したんですが、事業所に連絡が付かず、そのまま支援を続行するなど、対応に遅れが生じました。

その後、事故を検討したところ、普段からクライアントとの関係が上手くいっていなかったことが分かりました。アテンダントとクライアントは『合う』『合わない』が、どの現場でも起こります。かつ、知的障害をお持ちの方の支援には葛藤がつきもので、すんなり答えの出せない場合も多々あります。

だとすると、すべきだったことは、そこをキャッチして、別の現場に入ってもらうこと。

ヒヤリハットの中でも軽度と重度があり、対応や指導の仕方も変わってきますが、怒ったり追及するのではなく、発生状況や原因を検証して、次につなげるための「うながし」とするのが最も大切なことなんです」

澤田が率いるリスクマネジメント委員会。その取組みは、会社を守ることにもつながります。

澤田「介護事業の最大のリスクは、クライアントやご家族からの信頼を失うことです。リスクマネジメント委員会の目的は、クライアントの尊厳・安全を守り、アテンダントを守り、それによって会社組織を守る、この循環です。

第4期で介護事業がもっと幅広く展開していけば、支援させていただく機会が増え、それに伴いヒヤリハットや事故のリスクも、件数としては増えるでしょう。安全で質の高いサービスを提供するためにも、全国よりヒヤリハット報告を収集し、リスクの把握・分析・対策・評価を行います。

また、緊急時お守りブックや安全規則を全現場に浸透させるなど、より充実した取組みをしていきます」

CHAPTER7

散り散りに聞こえる「ちいさな声」を、繋げて出来上がるセーフティーネット

精力的に活動する中、澤田は2022年3月、再びくも膜下出血に襲われます。

澤田「自宅に一人でいる時に、急に頭にガーンと衝撃があって、すぐに嘔吐しました。動けず、息もできなくなってきて、『前と同じだ』と。なんとか救急車を呼んで搬送されましたが、その時には意識がありませんでした。今回はカテーテル手術はできず、開頭になったんですが、さすがに『もうだめかもしれない』と思いましたね。

でも最後に『もうひと踏ん張り』頑張ってみようとも思いました。脳梗塞も併発しましたが、リハビリして、なんとか普段通り仕事ができるようになりました」

大病を乗り越え、澤田は2022年9月、ブロックマネージャーへと昇格。北海道・東北エリアを管轄します。

澤田「第4期は北海道・東北が一つのブロックになったので、まずはレポートラインを大事にし、『健康経営』を主眼とします。

先日、東北の事業所にいってきました。第四期は目の前のことを丁寧にこなしながら、それぞれの事業所の土台・体制をしっかりと作ること。そして、やはり余裕がないと良い仕事ができないので、『余裕を持って!』とお伝えしています。

心身ともに健康を保ちながら、より良いチーム、力強いブロックとするため、今までと違った形で一人一人が成長し、共に学び、自分の力で目の前の業務を行っていければと思います。

そして何より大事なのは『人間性を高める』こと。株式会社土屋のMVVにもあるように、

・マナーや約束を守る

・冷静で感情の起伏が穏やか

・常にポジティブ思考で明るい

・周囲の人のことを考えて行動ができる

・誰にでも平等に接することができる

・自分磨きの時間を作っている

仕事を覚えるのみならず、同時に人間性を高めていくことで、さらに仲間が増え、強いチームにも繋がっていくと考えています」

そうした澤田が、社の未来について思うこととは。

澤田「今後はホームケア土屋・デイホーム・日中短時間事業・訪問看護・グループホーム等、多岐にわたり介護事業を展開していきながら、一人でも多くの高齢者、障害者の方に携わり、支援できる体制を築いていきたいです。平たく言えば、『ムラ』という形のコミュニティを作り上げたいです。

例えば、北海道・東北各地に、土屋の事業が一つ二つ入った小さなムラをたくさん作り、そこにアテンダントや高齢者・障害者、地域の方が集まってくればと。

札幌には、各地から障害を持った方が引っ越してこられたりと、一極集中の形になっていますが、高齢化や過疎化が進む中で、そういった小さなムラが今後重要になってくると思います。ムラができることで、地域の方がより身近な存在になって、近所で気軽に介護を受けられたり、提供できることがあくまでも理想です。それによって介護のイメージ自体も変えていければと思います」

CHAPTER8

水も風も、流れて花を成し、花は人を癒し、癒された人はまた、人を癒す

ドライブが趣味で、息が詰まった時など、気の済むまで走り続けるという澤田。最近は、花にも興味があるそう。

澤田「病気で静養しているとき、何度かお花をいただいたんですが、きれいなお花を見ていると、すごくリラックスできて癒されました。そこから、時間があるときは花屋さんに行って、その日の気分でお花を選んで活けるのが好きになりました。花の香りでリラックスできているせいか、睡眠も少しずつとれるようにもなりました。

孫2人の成長を見るのもとても楽しみです。」

そんな澤田から、介護の仕事を考えている方にメッセージです。

澤田「『介護の仕事』は誤解されがちですが、実際は『安定』し、『手に職』を付けられる仕事です。男女比を見ると、女性が多い職種ではありますが、20~60代まで幅広く活躍し、70代でも働くことはできます。年齢関係なくチャレンジできる仕事です。まさにこの時代、これからの時代も『手に職を付けるなら介護』『安定した仕事なら介護』と言えるかと思います。

また介護の仕事は、人との関り合いがすごく楽しいものです。依存しないよう、バランスはきちんと保つ必要はありますが、働きがいもあり、同時に感謝してもらえる機会が多い仕事でもあります。

この仕事は本当に素晴らしいです。私自身、ずっと続けたいと思っていますし、今後は一人でも多くの方々に少しでも介護という仕事の楽しさ、素晴らしさを伝えていきたいと思います」

澤田の中から沸き起こるエネルギーは、どうも留めない方がよい、留める必要がない、のではないかと感じます。

氷、コレラ、分厚いガラスの部屋、そして父の親心ゆえのアドバイスというモチーフ、堰のように現れる離婚や、二度のクモ膜下出血という「事件」も、澤田の中から沸き起こった「生きるんだ」という強い強い意志で死を遠ざけ生を手繰り寄せました。その姿と、ある時は怒涛のように、ある時は看取りに際して澤田の目からこぼれる涙のようにやさしく、まるで、河川の恩恵も災厄もある姿と重なるようです。

河川がただ物理的な川の構造だけでは存在し得ず、文化や生態系に深くかかわっているように、澤田が出会う人々と泣き笑いしながら繋がり育んでいく「エネルギーの川」は、さらに流れてその流域を、まだまだ広げていくようです。


TOP
TOP