介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

大元克也

福山・広島・下関 エリアマネージャー

今の僕にできることは、アテンダント、クライアント一人一人に対して、安心して働ける、安心して生活ができる、活躍ができるように支えること。

 《interview 2023.2.20》

ホームケア土屋 福山・広島・下関のエリアマネージャーを務める大元克也。「この仕事で一番大事にしているのは、共感をすること」と語る大元。福祉の道を目指しながらも、まっすぐに進んできたわけではない彼が、自身のこれまでを振り返りながら「介護という仕事」と「共感すること」を考えます。

CHAPTER1

「福祉が向いてるんじゃない?」。先生から言われ目指した福祉の道

株式会社土屋の本社のある岡山県井原市で生まれ育った大元。その中でも“星の郷”と呼ばれる、美星町の生まれです。

子どもの頃、どんな子だったかを尋ねると、「正義感が強くて、悪いことをした子に注意をして、でもその注意がいきすぎて自分が悪者になるというタイプでした」と笑います。

大元「美星町には、野球の少年団ぐらいしかなかったんですね。でも自分は野球が好きじゃなかった。小学校の先生から『今なら人数が少ないからスタメンになれるよ』と誘われたのがきっかけで、3年生からサッカーチームに入りました。サッカーは中学・高校になっても続けていましたし、大学に入ってからも2ヶ月にいっぺんぐらいは『みんなで蹴ろうか』と声をかけて集まっていました」

その後、高校を卒業し、地元の大学に進学。大学では、医療介護福祉を学びます。

大元「福祉の大学に進んだきっかけは、高校の時の先生が『大元は、福祉が向いているんじゃないか』と言ってくれたのがきっかけです。
当時の僕はフラフラしていて、なりたいものもなかった。でもその先生から『ここに行ってみたら?』と声をかけられて行ったのが、障害を持つ子どもたちとのクリスマス会でした。そこで初めて、障害を持つ子どもと関わって『楽しいな』と思って、福祉の道を目指し始めました。

社会福祉士や作業療法士という職種にも興味はあったんですが、僕自身、あまり頭が良くなかったんですよ(笑)。色々調べていた時に、介護福祉士等の資格が取れるんだったら行ってみようかな……ぐらいのノリで大学を決めました(笑)」

在学中、大元はスポーツ会社でのアルバイトを経験。
卒業前には、大学で取得した資格を活かし、一度は特別養護老人ホーム(特養)の内定をもらいます。ですが、「夢半ばというか、アルバイトをしていたスポーツ会社でやりたかったことがあって、特養の内定を蹴って」、スポーツ会社への就職を選択します。

大元「僕は子どもの頃からサッカーをしてきたこともあって、そのスポーツ会社をブランドとしてもずっと好きでいました。そこで社員として働けるように頑張りたい、という思いが捨てきれずに就職先を考え直したんです。

スポーツ店では、その日のスタッフの配置を決めたり、店内のレジに人が少なければフォローしたり、マネジメントに関わりながら、在庫商品の管理など裏方の業務にも携わっていました。

アパレル業界には、VMD(ヴィジュアル・マーチャンダイジング)というマーケティングの手法があって、マネキンが着る服の色や売り場のレイアウト等、商品の見せ方次第で売れ方が驚くほど変わるんです。たとえば、あるキャンペーンが始まると、VMDの部署の人から商品の飾り方や配置についての指示がきます。僕自身、“お客様に商品をどう見せるか”という部分に興味があったので、そのVMD業務に携われたらいいな、と考えながら働いていました」

*ヴィジュアル・マーチャンダイジング
流通の場で商品をはじめ、すべての視覚的要素を演出し管理する活動

CHAPTER2

「やりたいけど、できなかったこと」を経て、「やりたくて、できること」に辿り着く

念願だったスポーツ会社に入社した大元は、商品が魅力的に見えるよう、スポーツウェアのカラーコーディネートや素材・シルエットを意識したマネキン作りや配置を行ない、店舗内での場作りに関わりながら売り場の指揮を取ってきました。

3年ほど働いた後、結婚、お子さんの誕生を機に退職。その後、大工の仕事を目指して、見習いを始めます。

大元「当時は、結婚をして子どもができたこともあり、『このまま働いて生活ができるかできないか』を考えて、スポーツ会社を退職しました。『自分の体が動く限り働こう』という視点で仕事を選ぶのもありかなぁと思い、家族に大工をしている方がいたこともあって、大工の仕事を始めたんです。

ただ、大工見習いを始めてはみたものの、現場がきついとかそういうことではなくて、『自分はものづくりに向いてないんだな』ということを、正直なところ、ずっと感じていました。その時に、自分にとっての<できること>と<できないこと>、<やりたいこと>と<やりたくないこと>を考えていたんですよ。
そうやって自分の気持ちを整理していたら、大工の仕事は<やりたいこと>だけど、<できないこと>だったことに気づきました。一つ一つ考えていって、『じゃあ、自分には何ができるのか……』となった時に見つかったのが介護。そもそも介護は、<やりたかったこと>でもあるし、資格もある。『もしかしたら、これが自分にとっての<やりたいこと>で<できること>なんじゃないか』と」

大元にとっての、<できること>と<できないこと>。
それは、憧れから選ぶ職業ではなく、これまでの歩みから、「客観的に自身の適性を見つめる内省の作業」でもありました。

大元「介護は、元々勉強もしていたし、スポーツ店での接客経験もあるので、人と話したり、接することが自分は得意なんだろうなと思ったんです。

実際に大工の仕事をしている中で感じたのは、従業員の方とは話をしても、お客様は目の前にいないんですよね。“新居を建てる”という一生に一回あるかないかの大きなイベントに関われたことはいい経験だったんですが、大工として、現場で『家』という枠組みをつくり、完成を目にせず、喜んでくれる人とも会えないまま、その場を離れていくことも多かった。
『対もの』と『対人』というところを考えた時に、自分はものづくりというより、目の前に誰か相手がいる、という状態で仕事をして、人と関わって動いていく方が、経験的にも自分の性分としても向いてるんじゃないかな、と気づいたんです」

CHAPTER3

「この人のために、できることがあればいい」。再び、介護職へーー回り道のその先で

そして、2年ほど勤めた大工の仕事を辞し、自身の適性から再び介護職を目指し始めた大元。

大元「そもそも大学に通っていた時から、『一対一で介護するのが理想的だな』とぼんやり思っていたところがあって、『そんなところないよな』と思いながら探していたら、重度訪問介護(重訪)という仕事を見つけたんです。

転職活動をしていた時期は、ちょうどコロナ禍で。たまたま、以前務めていたスポーツ会社の方たちとのzoomの飲み会があったんですね。その時に、『実は今、介護の仕事を探しているんだ』『重度訪問介護の仕事をしようと思っている』という話をしたら、その場にいたかつての先輩が『それ、なんていう会社?』と聞いてくれたんです。『土屋って書いてあります』と伝えたら、『それ、俺が今、働いている会社だよ』となって。『マジっすか?勘弁して下さい』と(笑)」

不思議な巡り合わせを経験した大元。
出会いに導かれるように、2020年8月、重度訪問介護の仕事をスタートします。

大元「一番最初に入った支援現場は、ALS(筋萎縮性側索硬化症)をお持ちの方でした。クライアントご本人と奥様、お子さん二人という家族構成だったので、奥様はクライアントの介助をしつつ、子どもも見なければいけない。クライアントご本人は、『できるだけ子どもの成長を見たい」という思いを持たれている方でした。

その状況を見て強く感じたのは、今まで自分は経験したことがない、経験を超える状況だということでした。『人って、こんな苦しい思いをしながら生活しなきゃいけないんだ』、もっと言うと『自分がこれまで我慢してきたことなんて、ちっちゃいな』と思った。この人のために、何か一番に、できることがあればいいな、と。この感情は、今までの自分の経験の中からは出てこなかった感情でした」

「介護職」という仕事について話を進めていく中で、大元はふと「最初から介護の仕事をしていたら、きっと自分は途中で辞めていたと思う」という言葉を漏らします。
その言葉の奥には、どんな思いがあるのでしょうか。

大元「そうですね。一つは、大学を卒業して内定をもらった特養の面接で、『人は死にます。関わっている人も死んで、いなくなります。それでも耐えられますか?』という質問をされたんですね。
もちろん当時は、医療・介護・福祉を勉強していたので、頭ではわかってるつもりでいました。でもいざ、現実として考えた時に、関わっている人の死に耐えられる精神力や、死に直面した時、どうやって自分を切り替えたらいいかが想像つかなかった。
その場では『大丈夫だと思います』とは言ったのですが。それが当時の状態でした。

もう一点は、先ほども言ったように、そもそも自分は『一対一の介護が理想的だ』という考えを大学時代から強く持っていました。最初から施設で働いていたら、その点で引っかかって、おそらく『自分のやりたいことと違う』ということで、すぐに退職してたんじゃないかと思います。自分の思いと現実のギャップに自分なりに葛藤して。当時はそうやって、なんとか立ってたんじゃないのかな」

CHAPTER4

「僕は、あなたにはなれない」ことを理解する。その最初の一歩としての、共感すること

介護職に就いて3年目となる大元。
今、仕事で最も大切にしていることは何ですか、という質問を投げかけると、即座に「共感をすること」とこたえてくれました。

では、大元にとっての「共感すること」とは?

大元「クライアントの方とお話をしていると、ご自身の境遇から話をされることがあるので、そこで障害をお持ちの方が持っている価値観や考え方に触れることができます。でもそれは、正直なところ、『僕たちが経験していない、経験できないこと』なんです。だから、全てをわかってあげようがないということは、日々、話をしてる中で感じています。この『僕は、あなたになれない』ということを理解することが共感することの大前提としてあるんじゃないか、と」

アテンダントからスタートし、ホームケア土屋 福山のコーディネーター、オフィスマネージャーを経験したのち、2021年に福山・広島・下関のエリアマネージャーとなった大元。

自身のポジションを替えてきた彼にとって「共感をすること」はどのように変化してきたのでしょうか。

大元「アテンダントとして関わっていた時の現場では、目の前でクライアントの方が苦しい思いをしていらして、都度『苦しんでいるから、なんとかしてあげたい』というふうに、共感し、対応していました。でも現場で経験を積んでいるうちに、それだけでは何か「足りないのではないか」と思い始めました。

子育てでもそうですが、大小全ての思いを、今要求を伝えられたから叶える、従う…。それは実は、『クライアントの方の背景や経験を省いた共感の仕方なのではないか』という考えになったんですよね。

今は、共感して、そこから先を見ることが大切なんじゃないか、と思っています。
エリマネージャーになって、自分の視野が広がったり、当時より知識も積んだこともあって、『クライアントがどういう背景で、今こうなっているのか』『実際にその支援をできるだけの人員が整っているのか』等、アテンダントだった時よりも多角的な情報が見える立場になりました。
様々な情報を知った上で動き始める時、自分は『相手はこう思うんじゃないか』という想像力を持って、実際の行動に移していきます。だから、共感する、というのがまずある。そして様々な情報から相手を理解して、想像をして、行動にする。その人の核となるものを知れば、自ずとどう関わったらいいかが変わってきますから。その最初の一歩が『共感すること』なんじゃないかと考えています」

 

CHAPTER5

その先生に会っていなかったら、僕はやばい奴になっていたんじゃないかーー今の僕の「聞く」行為の基盤にあるもの

「共感する」という言葉は一方で、極めて抽象的な言葉でもあります。

大元自身は、アテンダントとのやり取りの中で、実際にはどんなことを行なっているのか。その行為について、尋ねてみました。

大元「そうですね。気持ちを受け取る、という面では『話を聞く』という行為だけでもいいと思います。
人って、話を真剣に聞いている時というのは、自然とスローな口調になっていくんですよね。でも自分の意見を伝える時は、スラスラ喋れてしまう。たとえば相手が話している間に遮って、ブワーッと喋ってしまったら、意見を押し付けられているような感覚を話し手に与えてしまいますよね。人ってどういう行為をするかによって、機能を使い分けていると思います。

だから僕は、アテンダントの方や、クライアントの方が話をしてくれている時は、最後までじっくり聞いています。話し手に『聞いてもらっているな』と感じてもらえるように。それから、僕から伝えることがあれば『こんな考え方もあるんじゃない?』と伝えるようにしていますね。

ただこれは今、アテンダントの方もマネージャーの方も、介護職に限らず、コミュニケーションを考える誰もが取り組んでいる根本的な問題なんだろうとも思います。結局のところ、誰にとってもその部分が最も難しいから、齟齬が起こったり、クレームになってしまったりする。だからこそ、僕はその軸を崩さずに『最後まで聞く』ということは大事にしていますね」

大元が放った「話を最後まで聞く」という言葉の説得力。
そこに込められた思いを辿っていくと、「今の自分をつくってくれた、という人や出会いはありますか?」という質問をした際に出てきたエピソードに突き当たりました。

大元「自分にとって一番大きかったのは、中学2年、3年の時に担任をしてくれた先生との出会いです。
当時の自分は、見た目でよく怒られていたんですよ。何もしてないのに呼び出されて、『お前、調子に乗ってるぞ』と言われたり、喋っているだけなのに『うちのクラスのこと馬鹿にしとったろ』と他のクラスの先生から怒られたり、常に理不尽な怒られ方をしてきました。

でもその先生は『ほんまは自分、優しいんやから』って僕に声をかけてくれて、よく見てくれていたんですよね。おそらく僕は、その先生に会っていなかったら、やばい奴になっていたんじゃないかと思います。
卒業式の後にもその先生が手紙をくれて、『見た目で違うことを言われたり、決めつけられることもあったけれど、芯の部分は優しいんだ』と書いてくれた。その手紙を見た時にわかったんですよね、『あぁ、こういうことだったんだな』って。

どんな人にも、ある状況や物事に対しての背景ってあるじゃないですか。中学の頃は、そういう説明を周りの大人に聞いてもらえない環境がずっと続いていました。でもその先生は都度、話をちゃんと聞いてくれて『こういうことだったんだね。だったらこういうことも考えられるね』と話をしてくれる人でした。きっと、自分も知らないうちに、憧れみたいなものがあったんだと思います。
そうですね。その先生が自分にしてくれたことが、今の自分の、『聞く』という行為の基盤になっているかもしれないです」

 

CHAPTER6

アテンダントの信頼と活躍を基盤に。そして「ちょっと、小さな、優しさ」のある社会をつくる

岡山で生まれ育ち、現在は広島〜山口を担当エリアとして活躍する大元。

最後に、本社のある中国地方で土屋がどういう会社でありたいか、<これから>についての質問を投げかけてみました。

大元「土屋は先日、47都道府県すべてに拠点を設けましたが、まだまだ、制度自体の認知度を上げていかなきゃいけないと思います。
そして、もし今ケアを必要とされる全ての方が求める時間数だけ、アテンダントを用意できたとしてもそこで終わりではないんです。
リソースが揃うことと、クライアントの方の『こういう風に生きたい』という声に応えられるかどうか、というのはまた別の、質の違う課題だと思うんです。

その中で、A L Sの方のように病の進行に合わせて支援を変化させていくことも、今後、初めて耳にするような疾患をお持ちの方と出会うこともあるでしょう。だからこそ、多様な依頼に、『常に対話の姿勢で関わる』という点では、日々、“支援現場”という最前線にいるアテンダントの方たち一人一人が周りから信頼をされ、活躍できているという状態を保つことがこの仕事において最も重要なのではないかと僕は考えています。

だからこそ、アテンダントの『この仕事に携わってよかった』という声、『重訪を利用してよかった』というクライアントの声を、この地域の相談員や、ケアマネージャーの方、支援に携わる以外の方とも、直接、お互いに受け取れるような環境がつくれたらいいですよね。
その上で、今の僕にできることは、アテンダント、クライアント一人一人に対して、安心して働ける、安心して生活ができる、活躍できるように陰ながら支えること。心理的な安全性が高められる組織でありたいと感じています。また常勤だけでなく、非常勤アテンダントの方も含め、働かれている時間も頑張りも能力もそれぞれが違うわけで、そこに対してスポットがあてられるような仕組みをつくることができたらいいなと思っています。」

土屋では、2022年11月にシンビオシスフォーラム(土屋総研主催)を岡山県・井原市で開催しました。それを機に、行政とのつながりが生まれ、地域に根付く福祉としての手応えを感じつつあると大元は言います。

「その地域の福祉が活性化していけるように、クライアントの声と行政や自治体を、土屋という会社を要に繋げていけたら」。そう話す大元が願う「地域福祉の未来」とは。

大元「今は、福祉制度を使う際には、それなりにお金が必要な部分がありますし、形としては、介護という仕事はなくなってはいけないと思う。
でも、そういう制度もあった上で、制度や仕事に頼るだけではなく、誰かが『助けて』と言った時に、もっともっと周りの人たちが、隣で反応してあげられるような社会になっていければいいですよね。

その時に『土屋でできることはないかな』と考えると、『アテンダントの方が増えてくださればいいな』という思いが正直なところ、あるんですが(笑)。でも、仕事としてだけでなく、ちょっと、ちいさな、優しさ、と言うのかな。障害を持っていてもいなくても、困っている人がいたら、近くにいる人たちが助けてあげられる社会が広がっていけばいいな、と思います。土屋という会社が率先して動いて、そんな社会をつくっていきたいですね」


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