定期巡回

定期巡回サービス土屋

下山祐一郎

熊本 管理者

人の役に立ちたい、という漠然とした思いを仕事につなげてくれた恩師のことば――「うちに来なっせ!」

 《interview 2026.09.30》

幼少期から人と接することが好きだったという下山祐一郎(しもやまゆういちろう)。就職したものの、時は大不況。
営業職の厳しさに直面する中、大好きだった祖父母が要介護状態に。
そんな中で出会ったのが「介護」という仕事、そしてそこで働く人たちの魅力と熱量でした。
老人健康施設での経験や福祉用具専門相談員を経て、今、定期巡回サービス土屋熊本の管理者として働く下山。
在宅ケアというあらたなフィールドで“地域に必要とされる存在”としてーー地域に住むひとりひとりの願いと、下山の思いが交差する、“定期巡回サービス”の仕事を訪ねました。

CHAPTER1

漠然と、「人の役に立つことがしたい」と思ってたけど。

「話好きで、いつも誰かとめちゃくちゃ話してた子だったよ」ってよく言われてました

―こどもの頃からお話を伺っています。下山さんはどんなところで生まれ育ってきたんでしょうか。

そうですね。
ちょっと行けば熊本市街があって、自然が豊かなベッドタウンみたいなところで育ちました。

こどもの頃は外で遊んだり、活発なこども時代を過ごしたのかな、と思います。

―その頃は、どんなことをして遊んでいましたか?

そうですね。
私がこどもの頃にJリーグが開幕してサッカーブームがあったんです。

僕自身は大した腕もなかったんですが、部活もサッカー部に所属していたので当時は「プロサッカー選手になりたい」と思ってましたね。

他にも水泳、バスケットボールやドッヂボールといった球技ーースポーツ全般が好きでしたね。

みんなでやるような外遊びはひと通りやってきたかな、と思います。もちろんゲームなんかもやっていましたね。

―どんなお子さんでしたか?性格的なところとか、こんなことよく言われていた、とか。

送っていただいた質問表を読みながらいろいろ考えてたんですが――「話好きで、誰とでも仲良くなれるような子だったよ」とはよく言われてましたね。

「いつも誰かしらとめちゃくちゃ話してたよ」って(笑)。
多分、僕の根っこの部分がそういう感じなんだと思います。

習い事で水泳や習字、あと学習塾にも通っていたんですが、先生やまわりの子たちと話してばっかりでやるべきことがなかなか終われず、帰れないっていう(笑)。

―いましたね、そういう子(笑)。

可愛がられていたような感じだとは思うんですけどね(笑)。そういう子だったと思います。

―その後、中学や高校、10代になって熱中されていたものがあったら教えてください。

高校生くらいになるとですね……やっぱり「プロサッカー選手になるのは無理なんだ」ということがやっとわかってきて(笑)。

ただ、漠然と「人の役に立つことがしたい」といったことは思っていました。

でも考えているだけで、正直なところ、「何がやりたいか」「どんな仕事がしたいか」はわからず、探してるような状況が最初に就職した頃まで続いてましたね。

―「わからない」ところから、どんなふうに仕事や働くことにつながっていったんですか。

そうですね。
僕が就職をした頃は就職難で、「大学を卒業しても就職先がない」なんて言われてた時代でしたが、一方でITバブルと言われた状況があったり、“ホリエモン”がインターネット事業の起業家として有名になった頃でもありました。

そんな中で大学は情報系の学科を専攻しました。プログラミングとか、システムエンジニアといったコースに進んだんですがーー挫折したんですよ(笑)。難しくて。

早い段階で「デスクワークで、黙々とパソコンに向かう仕事は、自分には合ってない」って気づきましたね(笑)。

ただ、卒業したところで、就職難の時期で仕事を選べる状況じゃなかったんですよね。

自分ではコミュニケーションが得意なところが長所だと思っていたので、「営業や接客といった仕事が自分には向いてるんじゃないかな」と考えて、最初に就いたのが営業の仕事で。

オフィスコーヒー等の飲料関係の会社で、法人向けの営業をしていました。

阿蘇のアスペクタ「ワン!とも犬フェス」にて

CHAPTER2

厳しい仕事をつづけること、将来への不安。そんな時、“大事件”が。

おばあちゃん、おじいちゃんの介護を通して出会うことができた、介護のしごと。

―「営業は自分には向いてるんじゃないか」と思い、お仕事を始められてーーいかがでしたか?

営業はもちろん人と関わる仕事ではあったんですがーー時代が不景気やリーマンショックと重なっていた時で、ものすごく業績が落ちてる時期だったんです。

それまでは、飲料関係の業界というのは「従業員のためにお金を出して準備する福利厚生のような形」として取り入れている会社が多かったんです。

もともと1980年代のバブル経済とともに右肩上がりで伸びてきた分野で、バブルが崩壊した後も「コーヒーぐらいは従業員のために残しておかないと……」なんてところもあって、まだ直接、不景気の煽りを受けずに残っていました。

それが、リーマンショックや不景気でその分野が会社の予算から一気に削られることになりーーそういう時期に就職をしたので、仕事はめちゃくちゃ厳しかったですね。

今みたいに「環境を整える」とか「ブラック企業」なんて言葉もなかった頃です。

朝7時ぐらいに出勤して、夜1時ぐらいまで残業してーー業績が右肩下がりの中、会社としては右肩上がりの計画を立てないといけない。

なんとか達成するための営業の計画を立てて、夜遅くまでお客さんのところに行ってーーそこで6、7年は頑張りました。

当時は苦しくて仕方なかったんですが、まだ若かったのもあって。

ただ、そこで学んだことは今の仕事にも繋がってます。
管理者になると求められる質や数字がありますよね。

結果にこだわることと、そこに達成するための思考のプロセスといったところは当時のめちゃくちゃ厳しい環境で養われたんじゃないかな、と思ってますね。

その後――30歳になる手前で、福祉の業界に入りました。
そのきっかけは、もちろん仕事がめちゃくちゃ厳しくて、どうあがいても業績も上がらないのもあったし、「このままこの会社で営業の仕事を続けるのか」っていう、自分や将来に対する不安みたいなものもあったんですがーー。

そのタイミングで祖父母がふたり同時に要介護状態になったんです。

―そうだったんですね。

はい。僕は“おばあちゃん子”、“おじいちゃん子”で育ってきたので、ふたりにはとっても可愛がってもらってきました。

家族もみんな仲が良かったのもあって、家族内では「まさか、あのおじいちゃんとおばあちゃんがこんなふうになるなんて……」っていうぐらいの大事件だったんですよ。

今ほど認知症や認知症の方への理解も世の中に浸透してなかった頃でしたしね。

今となっては、「(認知症の方)本人が言ってることを否定してはいけない」「同じことを何回も言っても、そのまま受け取ってあげればいいんだよ」といった認識をご存じの方も多いと思いますが、当時の私も、私の家族もそういったことを知らず、めちゃくちゃ動揺してーー。

みんなで、「どうする?どうする?」みたいになってる時に、おばあちゃんとおじいちゃんの介護を通して、ケアマネージャーさんや福祉用具の仕事を知ったんです。

もともとは営業をやっていたので、「福祉の相談員や福祉用具の営業のような形で人の役に立つ仕事もあるんだ」って思いました。

「その仕事だったら、自分の今までの経験も、こどもの頃から思っていた『人の役に立ちたい』っていう思いも両方叶えれるんじゃないか」って考えたんです。

そこで、介護職員基礎研修(今でいう実務者研修)を受けに行くことにして。

当時、取ろうと思っていた福祉用具の専門相談員の資格コースは、数日通って修了できたんですが、その時のおばあちゃん、おじいちゃんのために「認知症のことをちゃんと知りたい」っていう気持ちがあったので、半年ほどかかるコースに行くことにしたんです。

その時に、認知症ケアの指導者や、介護のベテランの方から実際にお話を伺って、「すごいお仕事なんだなぁ」って感心したんですよ。

でも、その時はまだ“他人事”というか、「僕にはできないかな」って思ってるところもありました。

そんな中で、熊本の認知症ケア上級専門士の松永美根子(まつながみねこ)さんと出会ってーー僕にとっては、今も恩師だと思っている方なんですがーーご自身が副施設長を務めていた施設に声をかけてくださったんです。

「介護の現場を知らんと、福祉用具の仕事はできないよ。うちに来なっせ」って。その言葉を間に受けちゃって(笑)。

―(笑)。

いろいろ悩んだんですが、学んでいくうちに、素直に「やってみたい」っていう気持ちが芽生えたんですよね。

人の役にも立てるし、おばあちゃん、おじいちゃん好きだし、実地研修に行っても、全然大変そうに見えなかったし、排泄ケアといった関わりにも全然抵抗がなかった。

それで、介護福祉士とケアマネージャーを目指すことに決めて。ただーー当時、介護職員は給料がすごく低かったんです。

今でこそ処遇改善加算(介護職員の給与や労働環境を改善するための国の制度)もあって、他の専門職と同じくらいの給与がいただけるようにはなってますが。

なので、「うちで5年間働きなっせ」って言われて、「これはまずは勉強だな」と思って(笑)、老人保健施設(老健)に勤めることになりました。

家族で長崎ランタンフェスティバル2026へ

CHAPTER3

「こんなに毎日楽しく過ごして」「こんな働き方があるんだ」――介護の仕事との出会い

最初に勤めた老健は、いろんな失敗をそのまま受け止めてくれるようなやさしい雰囲気の職場でした

―ちょっとお話が戻っちゃうんですが、下山さんが「(介護の仕事は)自分にはできないかな」と思ってたと仰っていました。どんなところに、介護の仕事への距離があったんでしょうか。

そうですね。
本当に単純にーー介護の仕事が自分の選択肢の中に全くなかった、というか。

「自分はできない」と思ってたし、全く頭になかった、そういうことだと思います。

―そこから勉強したり、いろんな人と知り合ってく中で、ちょっとずつ身近に感じられてーーという感じですか。

そうですね。
講師の方や、これから介護の仕事を志そうという仲間たちと出会っていく中で、みなさんの介護という仕事への純粋な思いを近くで感じるようになりました。

そういう思いに触れるにつれて、社会的な課題――高齢化の問題や成り手不足の問題も当時から言われていましたーーから見ても介護の仕事は社会にも役に立つ仕事だし、直接的に人の役に立てる仕事でもある。

現場で働く人たちが、崇高な理念や考え方を持ってこの仕事に取り組んでる、その熱に当てられて、「自分もやってみてもいい」ってなったんですよね。

―実際に老健で働き始めてからはいかがでしたか?どんなことを感じられたり、「こんなやり取りしたのを覚えてるな」っていうことがあったら伺いたいです。

それまでは「1分1秒を大事にして、利益を追求することをひたすら考える」、そんな環境にいました。

でも老健の施設の中では、ゆっくりと時間が流れてて、笑顔や光に溢れてて、利用者さんたちが楽しそうに生活されてるところを私がお支えする。

アットホームな雰囲気もありましたし、最初は「こんな楽しい毎日を過ごして、お金がもらえるんだ」って感じたぐらい(笑)。

「こういう働き方もあるんだ」っていうことを改めて感じました。

その施設の、恩師も含めたみなさんが常々言っていた言葉が、「お年寄りと一緒に働く仲間にはやさしく接しなさい」。

それから、「介護職員はやさしさが基本なんだ」ということでした。

そのことは自分が管理者として働くようになって、今でも自分の考え方の基礎にあります。

クライアントさんはもちろん、アテンダントさんにもやさしく接すること。

そして仲間同士で思いやりを持って働くこと。
そういったところは大切にしてますね。

―最初に老健で働き始めたころ、今も覚えてらっしゃる方っていらっしゃいますか?

そうですね。
施設に勤めた時にお会いした方は、今でも鮮明にほとんどの方を覚えてます。

ただ、認知症の専門の棟に配属された時は、最初は失敗することもありました。

思い出すのはーー夏場になると、施設では特に「入居者の方に大体1日何ccぐらい、水分を取っていただく」っていう目標があるんです。

でも、その方は飲んでいただくこと自体、不自然なところがあって、私がその方がいわゆる“不穏”な状態になってることに気づかず、牛乳を頭からかけられて(笑)。

―(笑)。

もう、「無理矢理、飲み物を進めてくる人」みたいに自分がなっていたんでしょうね。

ビチャっと牛乳をかけられた、そういう失敗はありました。
ただ、不思議と腹が立つことがなかったんですよ。

そういったことも笑い話にできてしまうというかーーもちろん、自分の対応についての振り返りはしていましたが。

そういう失敗も受け止めてくれるようなやさしい雰囲気のある職場でしたね。

長崎ランタンフェスティバル2026 中華街にて

CHAPTER4

施設で暮らす<前>の暮らしに関わりたいーー在宅生活にふれて

介護職の処遇が改善されていった2010年代。労働環境の変化も転職を後押しした

―そこから福祉用具の営業の方に行かれるんですか?

そうですね。
「35歳を超えると転職がしにくくなる、新しいことに挑戦しにくくなる」――俗にそんなことを言われてたのを聞いていたので、「35歳ぐらいから福祉用具の仕事ができたらいいな」と考えていました。

当時は、法律上、介護の仕事を始めて3年で介護福祉士の、5年でケアマネージャーの受験資格が得られることになっていたのでそれを目指していたんですがーー僕が介護福祉士の資格を取得した頃に「介護福祉士として登録をしてからさらに5年以上の経験が必要」っていうふうにケアマネージャーの受験資格の制度が改正されちゃったんです。

それで「(老健に勤めながら)さらに5年は待てない」と思い、当初の予定通り、35歳で福祉用具の営業に転職をしました。

経済的な面の不安もありましたね。

家族もいましたし、「この給与じゃ、やっぱり続けられない」っていう思いも多少はあってーーというのも当時は、老健は施設の介護職の中で給与の水準が低かったんですよ。

その頃は処遇改善加算もなかったので、月に夜勤を7、8回やって、10時間、20時間残業して、やっと手取りが18万――とか。

正直なところ、半分はボランティア精神で働いているようなところもあったので。

それとやっぱりーー在宅ケアに興味があったんですよね。

―その頃からご興味があったんですね。

はい。
老健はリハビリ施設なので、自宅と施設を結ぶ中間施設とはいえ、老健で最期を迎える方もたくさんいらっしゃいました。

特養やグループホーム等と比べれば、“終の住処”という色は強くはないですが、「施設には『在宅で生活し続けることが難しくなった方が過ごす』という一面もあるんだな」と感じたんです。

と同時に、「一度、老健や施設に入ってしまうと、ご自宅での生活に戻るのがどれだけ難しいのか」を痛感させられました。

それもあって、「その前の段階から関わることで、地域に住む方の在宅生活を叶えていきたい」と考えるようになりました。

介護予防といった面でも、福祉用具は、その人の動作を補助するための道具や、地域でコミュニティと繋がるために道具を選定することができるという可能性を感じていたので、「福祉用具の仕事で働こう」となったんですがー―。

福祉用具の会社もいろいろだとは思うんですが、私が勤めたのは割と大きな会社で、想像していたより営業職が強かったんです。

私自身は福祉用具のレンタル事業や販売、それから住宅改修といった、クライアントさんと直接関わる仕事に携わっていました。

もちろん最初に勤めていた飲料関係の会社で「結果にこだわること」を叩き込まれていたので、その“結果”を出した上で、クライアントに役に立つような提案や、地域の中の福祉用具の担当として働くことができるんじゃないか、という思いで頑張って続けてきたんですね。

自分のことを「結構どこでも、どんな仕事でも割と楽しめるタイプだ」と思ってるところもあったので。

ただ、やっぱり介護の現場で働いていた時が楽しすぎて(笑)。

その後、福祉用具の仕事を続けていた5、6年の間に介護職員の処遇が一気に整備されていって、現場で働いていても福祉用具と同レベルか、それ以上の給与体系の求人もどんどん出てくるようになったんです。

「だったら在宅介護の現場で」と思っていた時に土屋の求人と出会いました。

保護犬としてやってきた、「つぼみ」と。 後ろ脚に障がい(膝蓋骨脱臼)があるので、 カートでお散歩することもありましたが、現在は手術して歩けるようになってます

 

CHAPTER5

地域資源としての、“定期巡回サービス”

その地域に定期巡回サービスがなくて、思いを叶えることができず、泣く泣く施設に行かれるーーそういう方が想像していた以上に多かったんです

―土屋に入社された時、下山さんはもともと定期巡回を希望されていたんですか?

そうですね。まだ未経験だった、「在宅ケアに関われたらいいな」とは思っていました。

あともうひとつ、福祉用具の会社で働いていた時のことなんですがーー例えばクライアントの担当者会議にはケアマネージャーさんや事業所のヘルパーさん、訪問看護師さん等が出席するんですが、ケアの専門職の中でも福祉用具って“営業職扱い”なんです。

在宅介護はチームでのケアとはいえ、福祉用具だけちょっとーーもちろんケースによってはそんなことはないとは思いますし、自分が勝手に疎外感を感じただけなのかもしれないんですがーー「ケアの専門職の輪の中には入れない存在なのかな」って感じるようなもどかしさがありました。

でもやっぱり現場で働くみなさんの姿を近くで見て、真剣にクライアントを思って話し合う姿を見て、「自分もやっぱり“そっち側”に行きたい」、って。

そんな時に土屋の求人に出会って、「やってみたい」と思ったんですね。

それで、定期巡回サービス土屋の求人に応募して。
熊本の場合は、事業所の開設前だったので、立ち上げから関わりました。

開設前には東京にある定期巡回の事業所に応援に行ったり、熊本には土屋のデイサービス事業であるデイホーム土屋があるので、そこで働いたり。

―ちょっと感覚を取り戻したりしながら。

そうです、そうです。
そこで介護の現場の感覚を取り戻していってましたね。

―在宅ケアの現場に関わられるようになって、見えてくるものも変わっていったのでは…と思います。人と接する中で気づいたこと、見えてきたものはありますか?

そうですね。
定期巡回に勤めるようになって強く感じるようになったのは、「その人らしい暮らしを支えていくっていうところの大切さ」というかーー。

それが実現できることと、「『自宅で住み続けたい』と思ってる人ってやっぱり多いんだ」という気づきもあったんですよ。

例えば、その地域に定期巡回サービスがなくて、思いを叶えることができず、泣く泣く施設に行かれるーーそういう方が想像していた以上に多かった。

特に、事業所のあるエリアが熊本市の東区というところなんですが、そこには定期巡回の事業所がひとつもないんです。

一方で、東京や福岡といった大きな都市には定期巡回がいっぱいあります。
それはそれで、競合他社がたくさんいる運営の大変さもあるのかな、とは思うんですが。

本当は家に住みたい方がたくさんいるし、「家に住んでいたら、◯◯がしたい」っていろんなことを考えてらっしゃる方たくさんいた。

でも、「その選択肢がなかった」。

熊本の東区で活動する中でもやっぱり、「土屋さんがいたから、母を最後まで家で看取ることができました」とご家族の方から言っていただける機会がたくさんありました。

そういう中で、地域資源としての定期巡回という仕事の価値を改めて感じていったーーというところですね。

もちろん管理者として、サービスの質を高めて、アテンダントさんの働きやすさを整えていくーーそういう責任もあります。

でもそれと同時に、「地域資源として、定期巡回という事業をこの地域に残したい」っていう責任感も一緒に芽生えていったんですね。

家族で湯布院へ

CHAPTER6

ひとりひとりの小さな願いと、それを叶えるための仕事。

「どうなってもいいから、自分の家の畳で死にたい」というおばあちゃんの希望を、みんなで叶えて

実はおひとり、ご紹介したい方がいてーー。

―はい、ぜひ聞かせてください。

そのクライアントの方はご本人の強い希望でご自宅に戻ってこられました。

ご高齢で両腕が全く動かない方なんですが、意識ははっきりされていて、自分の意思表示もはっきりされていて、「どうなってもいいから、自分の家の畳で死にたい」というのがご本人の希望でした。

ある時、入院されていた病院から「ひとり暮らしで、ご自宅に戻るにはやっぱり定期巡回以外は思いつかないんです」という相談をいただいたんです。

その方の在宅生活を検討する時には本当にたくさんの専門職の方が担当者会議に来られてーー15人か、16人だったかな。
みなさん、その人のために集まって、在宅復帰を叶えたんですよね。

その時に「この状態で在宅に返してくれる施設や病院もすごいな」と思ったんですが、「この仕事はクライアントご本人の思いそのものを叶えることができるんだ」っていうことにも気付いて、「定期巡回は本当にいいサービスなんだな」って改めて感じたんです。

その時に「この事業を残したい」って心から思ったんですよ。

―うんうん。

そういうおひとりおひとりの小さな願いを叶えるためには、定期巡回ってうってつけのサービスだと思ってます。

先ほどお伝えしたように、定期巡回サービスは、その地域に根付く活動をしていく事業形態でもあるので、「自分が生まれ育った地域が、希望すれば最後まで家で暮らせるような地域になってほしいな」っていう思いもあるんですがーーそれと同時に「地域に必要なサービスなんだ」っていうことも感じる時があるので。

「熊本の、この場所に残していきたい」っていうことが、今、自分の中でのキーワードになっていますね。

―今は1日にどれくらい、その方のお家には伺っているんですか。

定期巡回では週に4回ほど訪問してます。
プラス、何かあったら随時訪問してますし、他にも訪問看護サービスが1日1回、医療が入るのは1日2回ほどですね。

それから、もともとの馴染みのヘルパーさんがいらしたので、その方たちが保険外サービスで1回。

いろんな人が関わられてて、本当にお元気で、頑張ってらっしゃるというか。

―その現場は、きっと……こちらがいただいちゃいますね、いろんなものをね。

ほんとにそうなんですよね。

CHAPTER7

この地域に住む誰もが、「住み慣れた場所で、最期まで」って言えるように

「在宅で暮らしたい」という願いを叶えていきたい。「多くの方々をお支えしたい」っていう気持ちは原動力にはなってますね

―最後に、これからのところを少し伺えたらな、と思います。先ほど、「地域に必要なサービスとしての定期巡回」というお話もありましたね。「こんな事業所になっていけたらいいな」、それから「こんな地域になっていったらいいな」という思いについて聞かせてください。

そうですね。
熊本は全体で見ても、定期巡回のような24時間・365日対応できるところが少ないんですね。

なので、10年後、20年後となると――熊本市で言うと、都心部よりは高齢化率も高いですし、認知症の方も増えていくと思います。

その時に、定期巡回サービスを利用して、「住み慣れた場所で最期まで」と誰もが言えるような、選択肢を残していきたいですね。

そのために地域に根差す活動はやっていきたいし、この事業を地域の中で欠かせない存在に育てていきたいな、って思ってます。

それから、管理者としてはアテンダントさんが安心して働きながら成長していけるような職場づくりを意識して取り組んでいきたいですね。

アテンダントさんが定期巡回で働いてることを誇りに思えるような会社にしたいな、と。

そのことが、ひいては「質の高いケアと、良いサービス」につながると考えているのでーー地域全体のために事業所全体を良くしたいな、と思います。

―日々の関わりは本当にささやかなものかもしれません。でも、そういった瞬間の積み重ねが、下山さんの今を形作っているのかな、とお話を伺いながら感じました。下山さんが仕事を続けている原動力になってるもの、続ける理由の部分についても伺いたいなと思います。

そうですね。
先ほどお伝えした、恩師からの言葉は原動力になっていると思います。

それから100歳を超えて在宅で暮らしたいという夢を叶えた方や、できる限り在宅でご両親を看取った、というご家族の声ーーそういった方々の思いをみんなで叶えてきた、という経験でしょうか。

だからこそ、今後も「在宅で暮らしたい」という願いを叶えていきたい。
「多くの方々をお支えしたい」っていう気持ちは原動力にはなってますね。

それから、クライアントさんやアテンダントさんとの日々のやり取りも同じです。

その中で笑顔が見えた時や、アテンダントさんの成長を感じられた時は管理者として原動力になってるのかな、って思います。

―ありがとうございます。では今日のインタビューはこちらで終了に……

あ、あと質問表に載っていた「休日の過ごし方」のことなんですが……

―すみません!下山さんに聞きたいことがありすぎて、その質問まで辿り着けませんでした(笑)。

(笑)。実は……載せてもらいたい写真があるんです。
最近、ワンちゃんを飼ってーーそのワンちゃんは、外でしかトイレをしないんです。

家族で代わる代わるお散歩に行ったりもするんですが、基本的には私か妻が毎日朝夕、お散歩していて、その時間が1日のリフレッシュというか、すごく癒しになってます。

もともと飼っていたのは「ぽんた」という名前の白柴1匹だけだったんですが、その後、もう1匹、保護犬を飼うことになって。

茶柴の「つぼみ」です。

2匹のワンちゃんと一緒の写真を、記事と一緒に載せてもらいたかったんです。

「ぽんた」とカフェへ

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