入社のいきさつ
2021年3月末に神奈川大学を退任予定で仕事を探してた時に、土屋本社付社員の原香織さんに、高浜敏之さん(株式会社土屋・代表取締役)を紹介されたんです。それで高浜さんが介護難民問題の解決に取り組んでいて、「施設から地域へ」といった信念を持ちながら重度訪問介護事業をしていると。それはいいなと思ったんです。高浜さんからも入社のオファーがあって、渡りに船と飛び乗ったわけです。その船がいい船だった。
私の人生における最後の仕事だと思っていますので、ライフワークである障害福祉の仕事をしたいと。しかもそれが重度訪問介護であるわけです。自分がずっと思い描いていたこととぴったり合った、そういう奇跡的な出会い。
重度訪問介護って?
実は、高浜さんとお話するまで、重度訪問介護制度というのを知らなかったんです。これは06年の自立支援法で設けられた事業だから、私が旧厚生省で障害福祉課長をしていた時にはこの制度はなかったんです。しかも当時、私の課の対象は障害児と成人知的障害者。この制度ができたときには、障害者福祉には具体的に関わっていなかったので重訪は全く知らなかったんです。
「これだ!」という直感
重度訪問介護という事業が、「これだ!」とすごく心に残ったんですね。それと、高浜さんの障害者本意の話を聞いて、土屋がピュアな理念を持って会社を立ち上げたわけだから、この事業がいいなと。
私が旧厚生省の障害福祉課長をしていた時のキーワードが「施設から地域へ」でしたが、北海道庁にいる時、80年代から地域に戻るという活動のパイオニアである小山内美智子さんという脳性麻痺の方と出会ったんです。この出会いが大きかった。これだと思ったんです。
そうすると土屋は重度訪問介護事業の会社で、つまり自宅に訪問して介護する。しかも最重度の、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の方たちの居宅での生活を支援することは凄いと、すぐに分かりました。
自分の理想と重度訪問介護がぴったりと一致しました。一目惚れというやつです。それから、HPでスタッフのコメントを見て、志があるなと。そして、直感ですね。私も多くの障害者福祉関係者と会ってきたから、直感があるんですよ。この人は本物だとかね。そういう意味で、高浜さんだけでなくスタッフも、「勇将の下に弱卒無し」というけれど、土屋が凄くいいと思いました。
今の日本の障害者福祉について
いいところまできていると思います。
私が旧厚生省の障害福祉課長だったのは87~89年です。その時に福祉改革があって、中でも象徴的だったのは、私が障害福祉課長を辞めた後ですけど、「措置制度」が「契約制度」になったことです。例えば、自治体が高齢者や障害者を施設に入れるのを「入所措置」というんですが、それが本人と事業主体との契約でサービスを受ける、入所もするという形になった。それが大きなことです。これを「措置から契約へ」と言います。
それと同時期に、施設から地域へという動きがかなり加速していった。私が障害福祉課長になった時はまだその黎明期で、私としては当時、これではダメだと思って一生懸命やったんですけども、それがさらに加速したということです。
自立支援法から総合支援法になって、具体的な施策も考え方もいい方向に変わってきている。現在進行中なんですが、今の時点でも相当いいところまで来たかなと思っています。その中で、すでに緒についている重度訪問介護、よくぞここまで来たなと。よくこの事業を作ったなと。
これには運動体(障害者運動団体)のお陰もあると思います。決して役所が指導してきたのではなくて、そもそもニーズをもった運動体が、在宅の重度の方にどう支援していくかというのを手探りで、役所とやり合いながら作ってきた。
それが06年に法制化するくらいにまでなったのが凄いなと思います。金字塔だと思っています。地道に説いて、実践して、仲間たちとNPO法人を作って、その活動が市町村事業になった。運動体、重い障害を持っている人たちが作り上げてきた金字塔です。
今後、成し遂げたいこと
重度訪問介護についていえば、具体的には、障害福祉サービス等報酬を引き上げなくちゃならない。ある程度の基盤までできているけれども、隠れた需要というのはまだまだあるわけです。
例えば土屋では今、多くのALSの利用者がいるけれども、こういうサービスがあれば、施設や病院から出たいと願っている人は今よりももっとたくさんいると思うんです。その人たちにサービスを提供するためには、介護者(土屋ではアテンダント)を増やさなくちゃいけない。質・量ともにです。
けれど、人が集まらない。それは処遇がまだまだ良くないから。それでも働いてる人は偉いなと思いますけど、もうちょっと事業を広げるためには給与を上げないと集まらないし、アテンダントになっても辞めちゃう人も出てくるだろうし。だからこそ、障害福祉サービス等報酬をきめこまかに改善していかなきゃいけない。
まだ他にもあるけど、しなきゃならない大きい所はそこですね。その辺のところを、厚労省に掛け合っていこうと思っています。
よく障害者団体と行政とは、へたすると敵・味方みたいになるんですよ。障害者団体はいろいろ要請しますが、行政の方は、前例がないとか、いろいろ問題があってやりたくてもできないと。そうすると喧嘩になるんです。でも、行政がまずやるべきことは報酬を引き上げるために予算を取ること。あとは世の中の偏見というのも問題ですね。
本来は行政も障害者団体も目標は同じなんですよ。具体的にはALSのような難病、命を維持するだけでも大変な方たちが在宅で介護を受け、その人らしい暮らしを送れるようになるのは、障害者福祉行政の理想じゃないですか。それを行政と障害者側が一緒に作っていこうと。行政は敵じゃないんですよ。ある意味、味方なんですね。
まだまだやることはたくさんあります。それで私はこれを行政と一緒にやっていきたいと思っています。私も役人でしたからね、私を採用した土屋は偉いね(笑)。これはすごくハッピーな結婚なんですよ(笑)。
あと、東京都ではできるけど、他県ではできないなんてこともありますが、そこは、あらゆる方法で県に働きかけて動かしていく。一度やらせてみる。成果が出れば、この重度訪問介護が凄いことだと気づくと思うんです。
浅野史郎さんの夢は?
この事業を質・量ともに広げていって、重い障害をもっていても在宅で人間らしい生活を送れるようにする。そうしたい人は全部、そうする。
ALSでいうと、人工呼吸器の装着率は、付けないと死んでしまうのに、まだ3割ほどです。それは、一つに家族に迷惑がかかるというのがあると思うんですね。でも、土屋はそういう人たちの在宅生活を支えるという事業をしているわけです。土屋は重度訪問介護のリーディングカンパニーですからね、たいへん意義がある事業をしている。
だから、みんなと一緒に、他の事業所や行政も巻き込んで、誰もが地域で生きられるように、人生最後の仕事をしたいと思っています。
「浅野史郎さんってどんな人?」
趣味はジョギングだけど
もうジョギングはできないんですよ。病気になって8か月入院したから筋肉が完全に落ちてしまって、もう戻らない。09年の東京フルマラソンが最後です。
ジョギングを始めたのは37~39歳までの2年間、北海道庁にいたことがきっかけなんです。職場が札幌だから、すすき野ですよ。飲む、食う、遊ぶで締めはラーメン、それを2年間続けたんです。東京に帰ってくる頃には68キロになってました。それで人間ドックで、このままだと生活習慣病で死にますと言われちゃってね。そう言ったのが女医さんで、それで「食い」改めますと。
あと運動も必要だと。そこからジョギングを始めたんだけど、ジョギングに必要なのはスピードでも距離でもなく、時間なんですね。だから今日は30分で行って30分で帰ってくる、というふうに時間で管理して走るようになった。そうするうちに走るのが楽しみになってきた。
ジョギングのいいところは思考がピュアになる。効用があるんですね。頭が働くし、アイデアも浮かぶ。気分も落ち込まない。朝に走ると、しんどいときもあるから戦いモードになるわけです。
旧厚生省、宮城県知事時代の思い出
旧厚生省時代は、これはもう、障害福祉課長になったことに尽きますね。1年9か月の短い間だったけど、私の人生にとって、輝くような経験をさせてもらいました。
それと年金局にいた時に年金大改正というのをしたんです。それまでは年金の受給額を増やしてゆくという改正だったけど、僕らは、減らしはしなかったけど、将来にわたって抑えるという改革を初めてやったんです。年金制度を将来的にも安定させるには絶対必要な改革なんだけれど、これは大変なことなんですね。それが心に残っている。
宮城県知事時代の一番のエピソードは選挙ですよ。初めて出た時から、選挙は面白いと思った。当時、旧厚生省にいたんだけど、選挙の告示の3日前に辞めたんです。そのとき、知事選で当選確実だったのが、当時の副知事です。その人が盤石で、政党関係も全部固めて、宮城県の経済界も、いろんな団体も全部押して、もうこれガチガチの当選っていうかね、そんな状況のところに私が出たわけです。
周りからは絶対勝てない。止めろ、止めろと言われながら出たんです。泡沫候補扱いだった。でもそこに出るってことは決断したっていうこと。もう勝つか負けるかなんて言ってられない。勝つと思ってましたよ。負けると思ってたらできない。
で、選挙が始まって、初めて選挙カーに乗ってタスキかけて、窓から手を振ると、道を歩いてたお爺ちゃんが手を振り返してくれたんですよ。それで、あー楽しいなあと思ったの。そっから突っ走っていって、結果的に勝ったんだからね。結構、差を付けて。だから選挙は楽しい。
2回目の選挙も凄かった。現職として出たんだけど、相手は保保連合だったんです。私の方は政党の推薦はゼロ。だからこれも、現職だけど危ないと。私の応援は仙台第二高等学校時代の同級生だけ。企画も演出も、主演も自分。いろんな面白いことをして、正々堂々と戦って勝ったので楽しかった。普通の選挙と全然違う。ドラマだったよね。
病気の前と後で変わったこと
変わったのは頭です。昔は真っ黒でふさふさで、邪魔になるくらいだったけど、これだからね。
僕がなったのはATL(成人T細胞白血病)という、白血病の中でも一番治りにくい、一番死にやすい病気だったんだけど、珍しいのはウイルスが介在してること。アフリカ起源のもので、母親の母乳から移ったんです。これもさっきの選挙と同じで絶対治ると思ってました。
ATLと診断されたときは、治りにくいことは知ってましたから、足が震えて目の前が真っ暗になった。それから30分後くらいですよ。妻と話していて、俺、この病気と闘うぞーって言ったんです。そしたら元の自分らしい闘いモードだけになった。
余計なことは考えずに、病気と闘うことに集中するだけ。そういう風に思ったら、これは闘病にもいい影響をもたらして、精神的な安定をずっと保った闘病期間になったんです。
治った後は講演に呼ばれたり、なんとなく威張ってる。どんなもんだってね。
今までで一番、驚いた人は?
障害者福祉に限ると、小山内美智子さんです。初めて障害者福祉の仕事をした北海道庁の福祉課長の時、陳情にやってきたんです。初対面の時からびっくりしました。彼女が車椅子に乗って、生後二か月の子どもを連れてきてるっていうんだから。子供?結婚?ということがまずあったし、それに当時は考えも付かなかったケア付き住宅を作ってくれって言ってきたんです。
実は旧厚生省から北海道庁に出向したとき、同じ省の先輩にこう言われたんです。
「浅野君、北海道に行ったらな、小山内美智子っていうとんでもないやつがいるから気を付けろよ」。
だから小山内美智子っていう名前がインプットされていたんだけど、僕が行ったときに一番最初に会いに来たのが、その小山内美智子さんだった。
実際に会ったら、そういう評判と全然違って、なんと面白い、なんと賢い人だろうと。そして行動力があるよね。いっぺんで僕、気に入っちゃって。
ただ初対面の時には彼女は私にはいい印象をもってなかったけど、すぐ変わって、仲良くなって。これは、さっき言ったような行政と障害者が同じ方向を向く、ということの僕自身の最初の体験版なんです。最初は、ケア付き住宅は難しいと思ったけど、面白いなと。で、この人も面白いから一緒にやろうと思って、一緒にやったんです。
これが障害福祉課長としての、というか行政としても初めての経験だったと思う。そういう意味で驚いた人が小山内美智子さんです。
障害者との初めての出会いは?
最初の出会いは、旧厚生省に入った時の初任者研修です。島田療育園という重症心身障害児施設を視察しました。ここで初めて重症心身障害児っていう人たちを見ました。50人くらいの施設で、廊下にゴロンゴロン転がってるんです。30人くらいが。よだれ流して、奇声を発して、もちろん歩けないからゴロンゴロンしてるんです。それ見て、びっくりしたんだけど、これは結構、あとあとまで効いてるというか。結果として、良かったと思ってます。出会いが重症心身障害児だったっていうのが。
尊敬する人は?
田島良昭さん。出会いもかなり衝撃的なんです。北海道庁から帰ってきて、旧厚生省の障害福祉課長になってすぐに、全国レベルで障害福祉の世界で面白いことをやっている、凄い人を教えてもらおうと、北海道の仲間に電話したんです。
そしたら田島良昭さんっていう、長崎の雲仙コロニー(南高愛隣会)っていうのをやってる人がいるよ、って言われたんです。それで電話を切った時、なんと隣にいたんですよ。田島良昭さんが。こうして出会ったんです。それが、障害福祉課長になって10日目くらいの時。そこから始まって今に続いている。ずっと一緒です。
雲仙コロニーっていうのは、知的障害者の入所施設なんですけども、当時としては先進的というか、ものすごく変わってた。毎年、一般的な知的障害者の入所施設だと、大体1人くらいしか地域に出さないんですが、彼のところは20人出すんです。そういう実績も凄いなということになって。それから、今でいうグループホームのような、当時では先進的なこともやっていた。そんな人に、障害福祉課長になって10日目に出会ったんです。
会ってすぐに、例えばグループホームってどうやって作るのとか、質問攻めにして、そこから彼に全面的に頼りました。そんなこんなで最初は彼が私の先生であり、今度は向こうも面白い課長がいるっていうことになって、友達になって、あとは戦友という感じになりました。
実は、宮城県知事選挙も田島良昭さんがいなかったら、そもそも私は出ていなかったでしょう。選挙に出ないかという声がかかった時、かなり迷いがあって田島良昭さんに電話したんです。すると、彼が翌日東京に飛んできてくれたんです。そこから励まされたりしてるうちに、迷いに迷ったけど結局決断して出馬したと。
僕はよく言うんだけど、選挙は出るまでが80%なんですよ。あとは選挙戦でどうのっていうのは、ほとんど変わらないんです。そこを支えてくれたのが田島良昭さんだった。私の福祉の先生だったのが、政治の先生になっちゃったんです。
選挙の後、彼は長崎に帰ろうとしたんだけど、田島さん帰んないでって引き留めて、それから12年も一緒にいることになったんです。
その間、宮城県の福祉事業団の理事長として、彼は船形コロニー解体宣言なんかをやったんです。だからずーっとその後も私と一心同体で、奇跡の出会いの時から30年以上一緒にいるという。それは私が彼を尊敬しているからなんです。
田島良昭さんも私を尊敬してくれてるんです。お互いに尊敬し合ってるというか、そういう仲なんです。そういう意味で尊敬する人物です。
浅野 史郎(あさの しろう)
1948年仙台市出身 横浜市にて配偶者と二人暮らし
「明日の障害福祉のために」 大学卒業後厚生省入省、39歳で障害福祉課長に就任。1年9ヶ月の課長時代に多くの志ある実践者と出会い、「障害福祉はライフワーク」と思い定める。役人をやめて故郷宮城県の知事となり3期12年務める。知事退任後、慶応大学SFC、神奈川大学で教授業を15年。
2021年、土屋シンクタンクの特別研究員および土屋ケアカレッジの特別講師に就任。近著のタイトルは「明日の障害福祉のために〜優生思想を乗り越えて」。