土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)
小学校に入る前の娘に「遊歩はありがとうを言いすぎる。そんなにありがとうを言うのを聴いていると、人に頼むのが嫌になる。」と言われたことがあった。またアメリカの友人の家でも、車椅子で部屋の中を移動する時に物にぶつからないように物を移動してくれたり車椅子を押してくれたりする時に思わず「サンキュー」を連発し、「もうサンキューは言わないでくれ。あなたにそれをするのは当然のことなのだから。」そしてその後も思わず口をついて出てくるので、「サンキューを言い過ぎだ」と注意までされた。
障がいを持っていると、「ありがとう」と「すみません」「ごめんなさい」を言い続けて社会の迷惑にならないように生きるのだということを、養護学校で随分教育された。障がいが重ければ重いほど人にやってもらうことは増えるから、「ありがとう」「ごめんなさい」を言わなければならなくなる。施設にいた間、私は部屋の中で年下だったし、手術で寝たきりのことも多かったから周り中にそれを言うよう強要され続けた。おしっこをしたくて尿瓶を持ってきてもらっても「ありがとう。」便器はもっと言わなければならない。「お前のうんこは臭いから運ぶの嫌なんだ」と言われることもあって、「ごめんなさい」「ありがとう」を繰り返して頼み続けた。
それまで私は自分のできないことを母親と妹に当然のようにやってもらっていたので、このやってもらった後に感謝しなければならないことになかなか慣れなかった。排泄や食事や、さらに言えば採血されたり、痛くて無理なリハビリをされても「ありがとう」を言わなければならないのには、心の中でうんざりし続けた。しかし慣れとは恐ろしいものだ。生き延びるために私は強制されなくても「ありがとう」「ごめんなさい」を連発できるようになっていった。
20代で障害者運動に関わってからは、駅の階段を上り下りするために、「ありがとう」「ごめんなさい」は必須の言葉になっていった。しかし私は一方的にありがたいとは全く思っていなかったし、ときどき怖い持ち方をされた時には、そのことに気を取られて「ありがとう」を言うことをつい忘れることもあった。そんな時の私を見ていたのか、車椅子を押してくれていた友人に「あなたはあまり『ありがとう』を言わないよね」と批判的に言われた時があった。その言葉には仰天した。
「もちろんありがたいとは思っているけれど、まず車椅子で階段を上り下りする危険な状況を変えなければならない。つまり、エレベーターをつけたいという思いをみんなが共有しているだろうから手を貸してくれていると思うんだ。もしそう思っていないとしても、行動することで私は彼らの想像力に働きかけているわけで、彼らはそのことに『ありがとう』と思ってくれているに違いないと、いつもポジティブに考えている。人は自由を求め、優しさを表現したい存在だと信じてね。つまり私の命懸けの行動を彼らも分かち合ってくれているんだよ。
もしかしてあなたがもっと『ありがとう』を言って欲しいなら率直にそう言ってね。私はあなたと一緒に居られて、本当に嬉しいしありがたいと思っているよ。あなたも私といられていいことも学ぶことも沢山あると思うから、私に『ありがとう』という気持ちもあるのでしょう?」と言ってみた。彼女は初めはキョトンとしていたが、しばらく考えてから「そうだね。私もあなたに感謝していることいっぱいあるよ。」と言ってくれた。
1985年、私は東京に移り毎日大袈裟でなく、少なくても2、3駅を訪れ階段を使いまくった。その頃は介助料も全くなかったから車椅子を押してくれる人は学生や社会人の友人のみ。上記に書いた友人に初めて階段の昇降を手伝ってもらった時は、彼女は「この車椅子をあげたいので手伝ってください」と大声をあげてくれた。私は頭の中が『?』マークでいっぱいになった。しかし彼女の声かけですぐに数人が集まってくれたので、持ち方をみんなに伝えなければならない。だから頭の中の『?』マークは一瞬でかき消した。
階段を登り切って、手伝ってくれた人が足早に立ち去ると私は彼女になんと言ったらいいものか悩んだ。しかし電車がすぐに来て電車とホームの間の渡し板もない時代だったから、ホームと電車間の段差の乗り換え方を教えたり、次々に考えることがあって、その日は言えずじまいで終わった。
結局彼女に言えたのは数日後の、お出かけも3回目くらいだったと思う。言いたいことをようやくまとめ、「車椅子に意思はないよ。『車椅子に乗った人がこの階段を使いたいので手を貸してください』と言ってもらえないかな?また車椅子に乗った私の意思であることを伝えたいので、私がなるべく呼びかけはするよ。」と言った。
障がいを持つ仲間たちの中には自分の住む街の駅にエレベーターをつけようと、毎週日曜日10年間路上でそれを呼びかけてビラを撒き続けた人もいた。彼は究極の頑張り屋だった。自分は車も免許もあるにも関わらず、公共交通機関をみんなと同じように自由に使えないのは差別だということで、地方自治体や国土交通省にも働きかけ続けた。
そうした彼や私の頑張りの上に駅のエレベーターや、多目的トイレがどこの駅にも設置されるようになってきたのだ。私は、エレベーターやトイレを使う度に、私と私の仲間たち、そしてあの時手を貸してくれた通行人達、そしてその戦いを継承し続けてくれている一人ひとりに誇りと感謝の思いが沸く。
全ての人が最重度障がい者で生まれ、90%の人が障がいを持って死んでいく。その現実を踏まえて私たちは、全ての命がいきいきと生きられる社会を一歩ずつ確実に作り出して来たし、今もその途上にいるのだ。次なる目標の一つは無人駅の使いやすさを実現することだ。私たちの助け合い、分かち合う力をさらに結集していこう。