一人でする覚悟と一人にさせないこと / 田中恵美子

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

女優の故木内みどりさんに関する記事が昨日の新聞に出ていました1)。木内みどりさんといえば、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の記憶があります。

番組の中で何かしていたというより、出産しても休まなかったということの記憶がうっすら。それも調べてみたら本当で、しかも2日間入院して退院し、その次の日に自分で車を運転して収録に行ったとか2)。

その驚きはともかく、彼女の晩年は脱原発運動でした。「しばらくテレビで見ないな」と思ったら、そういう報道の方でみることが多くなりました。

政治的発言は叩かれたり、仕事が減ったりするというので発言を控える人が多いというけれど、彼女ははっきりと自分の主張をいう人。しかも、原発には絶対反対。珍しい人だと思ってみていました。

その彼女の記事を偶然見つけて、そこには彼女がどのようにして脱原発の運動に入っていったのかが書いてありました。

「原発事故が起きたときに、はっと気づいたんです。なんて無関心だったんだろう、と。だけど起きちゃったわけだから、起きる前には戻れないわけですよ。どうしたらいいだろうと日々悩んで、悩んで、できることをしようと思って。まず最初に行ったのデモで。びくびくで。『反対、反対!』って言っても、私なんか声が出ない。ただうつむいていただけなんですけど、それが初でも体験で。2回、3回と行くようになった。主人にも言わないで」

人前に立つことが仕事の大女優でも、デモは緊張する、特別な経験なんですね。それでも辞めずに回数を重ねていくところが彼女の肝が据わっているところです。

その後、彼女は官邸前でのスピーチや街宣の司会を頼まれるようになります。冬の寒い日の朝、予定とは違う、交差点の条件の悪い場所でのスピーチ。

「誰も聞いてくれないんですよ。『うるさいわねえ』と嫌なものを見るような眼でみんな通り過ぎていく」

「悲しくなってくるというか、さみしいというか、みじめというか。…『木内さんがいるから』って見に行った(人が)、それ見たら『あまりにもかわいそうで泣いた』っていうんですよね。多分、私の友達がそれ(司会)をやってたら泣いちゃったと思うんですね。それぐらい寂しい、みじめな、つらいことでした」

そんなにつらいのに、なぜ辞めなかったのでしょう。

「田尻宗昭さんという方がおっしゃったらしいんですけど、運動というのは『1人です。2人です。3人です』といった言葉が私の中で鳴り響いて。この『1人』でやることを怖がらずに、足をしっかりと踏ん張って、私の意思でここに立っているんだというふうに、しなければ何もできないと。あのときに身にしみて、なんというんでしょうね、分かった」

田尻宗昭さんは「海の公害Gメン」と呼ばれ、海上保安庁で勤務していた人です。
1968年三重県四日市市に赴任し、四日市市コンビナートの排水が海を汚染していることを目の当たりにして、公害企業の摘発に乗り出したそうです。

1969年、一本の情報電話をきっかけに漁師に化けて内偵調査の末、硫酸廃液垂れ流しを摘発し、さらにその会社と通産省の癒着も明るみに出したというすごい人。

その彼が言ったのが、「運動はどんなにメンバーを並べてもどんなに表面を飾っても、問題はその中の1人が命がけでやることです。その中の1人が燃えて燃えて立ち上がらないと、運動は成立しない。運動は数ではない。1人です。2人です。3人です」という言葉だったそうです。

私は介助者として障害者運動に関わり、集会やデモに付いていったことがありました。その時にはすでに運動は大きくなっていて、群衆となっていました。だから運動といえば、たくさんの人が集まって連帯しているというイメージでした。どちらかといえば、孤独とかみじめといった表現とは逆の、活気のある、志が同じ仲間が集う“熱い”イメージでした。

でも確かに、最初の問題提起は1人から始まりますね。
1人の運動として、府中療育センターで当時新田絹子さん(現 三井絹子さん)が男性介助を拒否して風呂に入らなかったことを思い出しました。

彼女の運動は、その当時は女性にも理解されず、「わがままだ」といわれ、新聞報道にも批判の投書がなされていました。今となっては、同性介助は理由を説明することも必要ないほど当たり前のこととして理解されるのですが。

一人でも声をあげる、その覚悟がある一人ひとりが集まって運動ができあがっていたのだと改めて考えました。

同時に、その一人一人の思いに共感する人たちがいて、ともにあること。1人にさせないことが声を大きくしていくのではないかと思います。

 

◆プロフィール
田中 恵美子(たなか えみこ)
1968年生まれ

学習院大学文学部ドイツ文学科卒業後、ドイツ・フランクフルトにて日本企業で働き2年半生活。帰国後、旅行会社に勤務ののち、日本女子大学及び大学院にて社会福祉学を専攻。その間、障害者団体にて介助等経験。

現在、東京家政大学人文学部教育福祉学科にて、社会福祉士養成に携わる。主に障害分野を担当。日本社会福祉学会、障害学会等に所属し、自治体社会福祉審議会委員や自立支援協議会委員等にて障害者計画等に携わる。

研究テーマは、障害者の「自立生活」、知的障害のある親の子育て支援など、社会における障害の理解(障害の社会モデル)を広めることとして、支援者らとともにシンポジウムやワークショップの開催、執筆等を行い、障害者の地域での生活の在り方を模索している。

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