怒りの作法 / 吉岡理恵(取締役兼CLO 最高法務責任者)

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

怒り、という言葉を検索したところ、怒りとは、人間の原初的な感情のひとつであり、目的を達成できない時、身体を傷つけられた時、侮辱された時など様々な要因・理由により起きるものであるそうです。また、怒りの感情はストレスに結びつくことが多いものの、実は怒りは単独では発生せず、怒りの前に安心、愛情、失望、悲哀というような第一感情が発生していて、怒りは第二感情として現れてくるそうです。

確かに、仕事上、ルールを守らない人がいると、管理する人にとってはルールが守られなかったという失望や、そのルール違反によってクライアントの生活に影響を与えてしまう危険性、ルール違反の蓄積が事業所や会社全体に悪影響を及ぼしてしまうかもしれないという恐れ、それによって隣のアテンダントの収入が減るかもしれない不安、加えて自分のマネジメント能力が不足しているという評価を受け社会的にも経済的にもダメージを受けることになるかもしれない悔しさ、といった様々な感情のあとに、だから怒る、というストーリーがあるように思います。

また、怒りには私憤と公憤の2種類があり、私憤は自身の個人的な事柄に関する憤り、公憤は社会の悪に対して、自分の利害を超えて感じる憤りだそうです。そして、怒りとストレスが結びつくという点からは、ストレスにも私的ストレスと公的ストレスがあるのではないかと思います。私見と世論と言い換えられるかもしれませんが、私見はわがままと言われても、世論になると正論に変化するように、自分だけと思っていたストレスが実は他の多くの人もストレスだと思っていたことがよくあります。

厄介なことは、ストレスは怒りを増幅させ、また私見を世論に私的に変えてしまうことも常日頃行われていることです。他のことでイライラしていたのに、目の前のことにすべてのイライラをぶつけてしまうようなことが、自分自身にも覚えがありますし、人間観察をしているとよく発生しているなと思います。また、9割方が私見であっても、そうだね、と一言同意してくれた人が一人いると、みんなそう言っている、という表現に変わってしまうこともあり、怒りとストレスそして公私、は発信する側だけでなく受信する側も感情を動かされ、もしや世界は本当に感情で動いているのではないかと思ってしまうほどです。

こうしたことはリアルの時代でも無数にあったのに、オンライン交流が可能になった近年は意見発信がたやすくできることに加えて、それが文字として残るので、かえって煩わしいことでもあると感じています。言った、言わない、の議論はやめてこれから話しましょう、という仕切り直しができなくなっているのです。また、発信者が絶妙な偽名を使いながら他の発信者を攻撃したり擁護したりもできるということが私憤を公憤に一瞬にして変えたり、私憤が公憤を招いたりもして、不気味な世の中だなとも思います。

怒り、の検索の中で、アリストテレスの残した「然るべきことがらについて、然るべきひとびとに対して、そしてまた然るべき仕方において、然るべきときに、然るべき間だけ怒る人は賞賛される」という格言を見つけ、これこそ怒りの作法だろうと思いました。

以下、この格言を私なりに解釈してみたいと思います。この格言通り、何に自分が怒っているのかという原因をはっきりさせることは怒りの作法として大事だろうと思います。原因はあまり抱き合わせにせず、できれば一つの方が作法として美しいだろうと思います。誰が誰に怒るのかも問題をすっきりさせるはずです。みんながみんなに、というのが一番分かりにくいなと思います。私だけでなくみんな怒っているんです、と一人で声をあげる人に対して、実は怒っているのが自分だけだと不安を感じるという気持ちの裏返しなのではと、思ってしまうことがあります。本気でみんなが怒っているのなら、同志の一人一人が固有名を発信しておかしくないからです。

誰に、というのも重要で、これは、怒りの原因が分かっていないと判明せず、また判明していたとしても直接その人に言う勇気がないと、周囲の人に愚痴のように怒りをぶつけるという不作法なことになってしまうように思います。ただ、一人の怒りより集団の怒りの方がボリュームとしても問題としても大きくなりますので、怒りを発信している人の真意が、単なる愚痴なのか同志を募るまっとうな手段なのかは見極めが必要でしょう。また、怒りを行動に移し、物事をより正しくしたいと思う人は、信念があるように思います。

誰にどう言われようと思われようと自分のその信念を貫く覚悟があり、その信念に軌道修正が必要だとしたらその修正もいとわないという謙虚さもあっての信念であれば、わりと短い間に、その怒りは公憤と表現されてふさわしいものになるのだろうと思います。

ここまでくると、それなりに時間はかかっているはずなので、いつその怒りを発信して行動するかはもう見えているように思いますし、見えていなくても訪れたときにそのタイミングを逃がさないで済むように思います。怒りを感じたときにすぐに怒りを発信すると、どこかで墓穴を掘っている可能性もあるので、間髪いれず、というのはタイミングとして控えた方がいいのでしょう。

怒りを発信して、行動して、是正されたあとは、あれこれ言わないというのが礼儀正しいと周囲には映るだろうと思います。怒りの矛先となった人も、反省したり、これからどうするかを考える必要があるように思いますし、昨日の敵は今日の友に変わることもあります。あえて友を失うことのないよう、終わったことは尾を引かないのが礼儀なのだろうと思います。

この解釈がどこまで適切かは分からないのですが、この格言が紀元前に発せられ、今なお当然に通じるだろうことは、怒りの作法というものが実は人間が永遠に習得できないものなのかもしれません。それほどに、怒りの感情を適切に表現することは難しいことです。この難しさに立ち向かって、公憤を唱えるリーダーとなりフォロワーとなるか、静観するか、邪魔をするか、異議を唱えるかは個々人の良心が決めることなのだろうと思います。私自身は、感情表現が苦手なゆえ、どのような手段であっても憤りを周囲に表現している人を見ると、それだけですごいなと思っていたりします。

◆プロフィール
吉岡 理恵(よしおか りえ)
1981年東京都生まれ。
東京都立大学経済学部卒業。
20代は法律系事務所にてOL、30代は介護・障害福祉分野で現場の実務や組織マネジメントを学ぶ。女性管理職応援中。
CLO 最高法務責任者

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