死ぬの怖くないの? うん。 / 牧之瀬雄亮

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

先日勤め先の知的障害者施設に住む方と、プラ〜っとドライブに出たときのこと。

お気に入りの食べ物屋さんでプリンなどを召し上がってもらい、ほんじゃあ帰ろうと車を走らせていて、バックミラーに目をやると、住む方の中で最高齢の、中国の掛け軸に描いてありそうな様子の方と目が合いました。

昔は畑仕事をしたりして、少し弱ったと言いながら中々今でも健脚で、こうと決めたら引かない、若手の職員などは手玉に取るような老練で、ユーモアもお好きな方です。

私は不躾と一回性を重んじており、彼らと話すときもそれは変わりません。
ふと、私の心の中に尋ねてみたい問いが湧き上がりました。

私「〇〇さん、あのさ、〇〇さんは長生きしたい?」

〇〇さん「(軽く確かに首を横に振り、表情を変えず)ううん」

私「え!?あ、そうなの?じゃあ死ぬの怖くないの?」

〇〇さん「(当然じゃんぐらいの口調で)ない」

何か透明でみずみずしい雷に触れたような気持ちで、驚くというより、「やっぱこの人たち凄い」と思ったというのが一番感情の中で割合が高かったと思います。

コーラがお好きで、私の顔を見掛けると、「コーラをくれ」とジェスチャーで伝えてくださるし、「明日休み?」と聞いてくるし、私の子供の写真を見せたらしわの刻まれた顔をもっとくちゃくちゃにして「かーいー(かわいい)」と褒めてくれるし、なんか生に執着があるもんだと無意識ながら勝手に、そうこちらは捉えていたもので面食らいました。
面食らったものの、嫌なものではなく、すこぶる爽快でした。

知的障害とは、Wikipediaセンセーにお尋ねしたところ

1. 知的機能に制約があること
2. 適応行動に制約を伴う状態であること
3. 発達期に生じる障害であること

なんて定義がありまして、
後の方読んでいただくとわかりますが、なんとなくIQ70〜75以下を基準にしてたりしなかったりしま〜すという感じのもので、この辺の曖昧な線引きを確実なものにしようとすると、じゃあサイコパスはどうなのとか、「みんなそうじゃん」とか、泥沼にハマりそうなので割愛します。

( 2021年3月11日 (木) 13:18 URL:  知的障害 – Wikipedia )

私から、パソコンに擬えて言わせてもらえば、知的障害を持つ人とは、

「社会生活を嫌々でも送れる平々凡々な人とやや違うOS(パソコンでいうところのオペレーションシステム:例 Windows、トロンなど)で動いてる人」

ぐらいの話なんです。

はっきり言って勝手にこさえた基準であるし、私は彼らと過ごしている方が、世間のいわゆる“普通の人”たちと毒にも薬にもならないような世間話をするよりよっぽど好きです。

「普通〇〇するでしょ、みんなやってるよ」
と、自分の視野の狭さを強調したいのか、それとも私との差異を強調し、自分が多数の中にいることで、その部外者を指弾できる権利でも持っていると錯覚した“普通の人”たち。それでいて、同調を基本とするので自分1人に好き嫌い一ついう気概のない人たち。
哀れむだけで済めば良いですが、そういう人は自己イメージを固定するために人がどんな迷惑を被ろうと構わないので、安心安全の美名をまとって過剰防衛・過剰適応・過剰同調を周りに強います。

それを日本語で何というか、
「全体主義」です。全体主義ってどういう意味かと簡単に説明しますと、

数を傘に「別に自由意志を持つお前じゃなくていい。同質化こそ価値だ」と、手を変え品を変え強制する考えということです。

知的障害を持つと診断された人たちと過ごしていて私が気持ちが良いのは、これがないからです。
彼らは完全に「個人として」ものを言います。
そこにお互いの好き嫌いがあるだけです。

社会、みんなという主語を使って、その虎の威を借ることで自己の意思を強要してくる人がいるとして、誰がその強要に責任を持つかご存じですか?
何と誰も責任をもたないんですよ。
時間が経った後、仮にその強要した論理に間違いがあったと発覚したとき、その人は

「あの頃はみんなああするしかなかった」

と言うのではないでしょうか。

そのとき私は、「は?」もしくは「はァ?」
と言いたいですね。

プラス思考、アンガーマネジメントも結構。でもそれを利用しようとする人に対してはきっぱり拒否を突きつけるべきです。また、あなた自身もプラス思考、アンガーマネジメントをしている他人に対してその人を利用することはするべきではないのです。
(ここで「べき思考はいけないんだよ」と言い出す人は放っておいていい)

そんなこんなで自由意志をきちんと発揮している、知的障害を持つと診断された人たちには敬意を覚えます。

面白い世の中にしたいじゃないですか。自分の好きなように生きられる世の中にしたいじゃないですか。彼ら知的障害と診断される人たちを許容できない世の中ってまあ終わってるわけですよ。
我々の社会って「終わってる」んですよ。別の言い方で言えば程度がものすごく低いんです。

でも急にそう言われても、なかなか自分の意思を通すことが苦手だと言う人は、誰も見ていないところで1日2、3分でいいので「好きだ」とか「嫌だ」を言うことをしましょう。
慣れたらそれを行動に移せばいいし、人前でもやってみましょう。

今からでも遅くはありません。一歩、一歩が怖ければ半歩、踏み出してみましょう。私ごときの応援で良ければいつでもします。メールください。

4月に新卒で入ってきた後輩は、現場に入って3日目に何の気なくおしゃべりしていると、
「心地よくなるために取る手順や時間がそれぞれあるってことですね」
と、言うではありませんか。

既に私如きが教えることはないなと思うほど、彼らを見て関わることから学んで、いきいきと過ごしています。

健康寿命、ピンピンコロリなんて言葉があります。

日本は介護の必要な高齢者が他国に比して非常に多いのは皆さんご存知の通りだと思います。
また、病院の数、医療従事者の数も人口比にして非常に多い。
これは統計等をみていただければ分かります。

テレビをつけると健康食品のコマーシャルもひっきりなしです。

確かに健康でありたい、長生きしたいというのは、人の性と申しますか、まあそうなんでしょう。

それで、死の床、今際の際、もうそろそろお迎えが来るぞという時に、人々が口にする言葉というもので、最もよく聞かれることは

「もっと家族と過ごせばよかった」
「もっと〇〇しておけばよかった」

なんてことです。

日々好きなように過ごしていればいいだけのことですが、これをやらない理由を私たちはいくらでもこさえます。

私はどちらかと言えば好きに生きている方だとは思いますが、言い訳をしてしまう人の気持ちもわからないではありません。

しかしやはり自分こそが人生を作っているのだということを、この際改めて噛み締めましょう。

生きましょう、活きましょう。

 

◆プロフィール
牧之瀬 雄亮(まきのせ ゆうすけ)
1981年、鹿児島生まれ

宇都宮大学八年満期中退 20+?歳まで生きた猫又と、風を呼ぶと言って不思議な声を上げていた祖母に薫陶を受け育つ 綺麗寂、幽玄、自然農、主客合一、活元という感覚に惹かれる。思考漫歩家 福祉は人間の本来的行為であり、「しない」ことは矛盾であると考えている。

 

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