私が介護の仕事を始めた理由 / 伊藤辰也(ホームケア土屋 九州)

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

私が介護の仕事を始めた理由は、高校 2 年の夏に母が『くも膜下出血』で倒れた事が、大きく関わっています。
母が倒れる 1 年前に、祖母も転倒により骨折し認知症を発症…入院していた事もあり、母と祖母の看病が重なり、入部していた吹奏楽部も 3 年の春に退部し、高校 3 年の思い出は学校が終わると唯々二つの病院を行き来する生活に激変してしまいました。

病院で知り合った看護師の方と仲良くなり、数回デートした淡い青春の思い出もありましたが、この生活は高校卒業後も車の整備士として働きつつ 2 年間続き、その後また同時期に祖母は他界し、母は奇跡的に後遺症も無く退院する事で、仕事と介護の二刀流は突然終わりを告げました。

仕事も順調で出世し、20 年間真面目に生きてきた自分でありましたが、不意にエアポケットに落ちてしまいました。
このまま整備士として生きていくのか?自分は他にも何か出来るのではないか?と、自問自答している中で、新たな業種もしてみたくなったのです。

そこに、昔知り合ったお姉さん看護師の『伊藤君は優しいし介護に向いているよ』の言葉がリフレインし、無知な自分は無資格で特養の面接を受けたのでした。

今思えば、当然採用されるはずもなく、電話で『男性は要らない』の一言で不採用…これが悔しかった!!たった 15 分の面接で自分の何が分かるのか?男性が要らないなら最初から求人に女性のみと書いとけよ!と、怒りが込み上げてきたのを鮮明に覚えています。

そこで、介護ヘルパー2 級を取得する為、スクールに通い、年の離れた方々と 1 か月程楽しく学び、無事にヘルパー2 級を取得。
しかし、2 級取得の為に行った現場研修(特養)で、忘れもしない酷い介護を目撃し、就職先から介護施設は除外する事に…

訪問入浴を行う事業所の面接で『男性が必要です』と言われ、必要とされる喜びを感じた自分は何も考えずに介護職員として初めて就職しました。
ただ、考えが甘かった…訪問入浴は過酷で、夏は脱水になり冬は風邪を引き…利用者さんを抱え上げることから、腰を痛めた事もあり 1 年程で退職…

さて問題です!次に就職した介護事業はなんでしょう?

ヒント1 車の運転が好き!
ヒント2 腰を労れるかな…と思った。
ヒント3 高齢者介助が好き!
ヒント4 チームケアをしなくて良い。
ヒント5 介護資格が生かせる!

正解は介護タクシー(ケアタクシー)でした。

この業態は、ほぼ単独で従事できる点や、長距離の介護送迎もあり、今まで行ったことのない町や景色にも出会い、非常に楽しく自分に合っていたのか長く勤めましたし、普通自動車II種免許も会社経費で取得することができましたので非常にお得でした。因みにプチ自慢をすると、II種免はなかなか合格する事が難しい免許ですが、自分は 1 発合格!

運命の出会いは突然出現するもので、以前からの腰痛が悪化した事もあり、整形外科に入院… 同時に介護タクシーを退職… 手術は免れましたが、介護は諦めるしかない程の激痛… しかし、この整形外科で劇的に回復し、また院長が介護施設(グループホーム)を運営していたこともあり、退院後にすぐにグループホームへ再就職!!

それから、施設長として住宅型有料老人ホームを2棟立ち上げ、介護福祉士も取得し、気が付けば 20 年の介護経験を有する程になりました。
因みに、今の嫁はグループホームの上司でしたが、いつの間にか結婚していました…
長い間、介護の世界で生きてきた自分ですが、最大の財産は『人脈と縁』であると思います。

石の上にも 3 年と言いますが、まずは仕事が好きで楽しい事。そして誰かが自分を必要としてくれる事。誰かが笑顔になってくれて自分も笑顔であり続けた事。その積み重ねが自分の介護人生であり、全てだと思っています。

スタートは、ニートからの脱却であり、看護師さんと仲良くなりたいなどの不純な動機からの資格取得でしたが、いつも誰かの一言で前に進む勇気を頂きました。
これまでの経験と人脈に恵まれた人生に感謝しつつ、これを読んで頂いている方の縁にも感謝をし、この文章が誰かの背中を押せたらと思いつつ、第一章は終了と致します。
また、お目に掛かれる日を楽しみにしております。ありがとうございました。

 

伊藤 辰也(いとう たつや)
ホームケア土屋 九州

 

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