人類は生き延びられるか~逝ってしまった友が伝えてくれたこと①~ / 安積遊歩

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

今年も半年経った。65歳まで生きたので毎年数人は大切な友人と死別してきた。しかし今年はまだ半年だというのに毎月1人か2人の訃報が届いた。全員が障害を持っていて、その中の1人は東京のシェアハウスで1年は一緒に暮らした友人だった。今回は彼女のことをゆっくりと思い出してみたい。

彼女を思い出すことは、私たち障害を持つ人たちが直面してきた数々の問題を総結集して生き抜いてくれた人であると思うから。彼女は生まれた時から障害を持っていた。どんな事情があったのかは彼女自身もよく分かっていなかったけれど、人と違った体を持って生まれた彼女に母親は驚いて病院に置き去りにしてしまったらしい。数週間か数ヶ月後かは彼女も覚えていなかったらしいけど、ひとまずは戻ってきて、彼女は小学校までは親元で暮らしたらしい。

しかしそれも、らしい、というだけで彼女の記憶は養護学校に隣接された病院のような施設から始まる。そこで18歳までを過ごした。その間何度かは親の家に帰ることもあった。しかし母親からは無視、父親からは暴力という名の虐待を受けたので家に帰ることは全く嬉しくはなかったようだ。

私は沢山の人と会ってきたが彼女との出会いで1番驚いたことが、彼女の幼い時の写真が本当に少ないことだった。私が出会ったほとんどの人には赤ちゃんの時からの写真が少なくとも数枚はあったが、彼女の写真は小学校3、4年の頃から始まったのだった。

高校まで養護学校で過ごした彼女は卒業後、障害者雇用で地元の会社に就職。それから18年、彼女はそこで黙々と働き続けた。しかし実家から通いながらも食事は全部外食かコンビニだったという。母親も働いていたので彼女の食事を作ることは一切せず、彼女の舌は外食とコンビニ食との強烈なアミノ酸にコントロールされていった。

彼女に私と一緒に暮らしたいと申し込まれた時には、それらのことを全く知らなかった。ただ彼女のあまりの孤独だけがひしひしと伝わってきたから、もちろん良いよ」と即答した。

当時、彼女は職場の中で壮絶ないじめに遭っていた。私のところに来て一緒に住むまでの最後の1年間は職場の中で誰からも声をかけてもらえないという状況にいたのだった。家でも母親は全く彼女の話を聞かない。会社に行けば行ったで数十人の人から完全に無視されて日々を送っていた彼女。

その理由の1つに彼女の放つ匂いがあった。彼女は生まれた直後に手術を受けていた。その手術があまりにいい加減な酷いものだった。私はその手術をもう1度やり直してもらって、その辛い匂いから自由になることを提案しようと考えた。しかしその提案をするためにはまず彼女の信頼を得なければならないと直感。だから一緒に暮らすということの中で彼女が自分でその決断をしてくれることを願ったのだ。

ところが信頼を育てる前に彼女は私の家の食事が全く自分の口に合わないということで、ほとんど手を付けなかった。私は20歳くらいの時からベジタリアンだったし、娘を産んでからは肉をほとんど食べていなかった。家の中で動物性タンパクを料理することがほとんどなかったために彼女は時折娘を連れて外食に行った。ただコンビニ食だけは私が嫌がるのを知っていたので露骨に娘に食べさせることは全く無かったが。

ある日銭湯に行こうということになった。彼女は人工膀胱を着けていたので、18歳までいた施設でさえ皆んなに嫌がられ、独りぼっちで小さな風呂に入らなければならなかったという。障害を持った子供達の施設でありながらさらにそうした排除を受けて、彼女の心はどんなにざわつき、そして麻痺していったことだろう。私は銭湯に着いてから、「よく洗えば全然大丈夫だよ、膀胱が体の中にあるか外にあるかだけの違いなんだから」と言って彼女を励まし、みんなで風呂を楽しんだ。

その辺がきっかけだったと思うが彼女はあまりにも長い間直面しないでいた手術のやり直しに同意してくれた。私が娘を産んだ病院の医師を紹介し、彼女の身体の状況はかなり改善、回復したと思う。

しかし残念なことに彼女の食習慣を変えることはできなかった。一緒に暮らすことによって私たちと同じ物を彼女が食べてくれることによって、彼女も少しは長生きできるかもしれないと考えた。それは一緒に暮らしはじめた時からの私の願いでもあった。

ある日、私は彼女がよく寝ている部屋の押し入れを開けて愕然とした。そこにあったのは沢山のコンビニ弁当の空箱だったのだ。約1年というもの、彼女は私の目を掻い潜ってコンビニ食を食べ続けていたのである。

食べるということは人の人生の方向性を大きく決めることであると私は思っている。その時ももちろんそう思っていたから、もしどうしても一緒のものを食べてもらえないのなら、やっぱり別々に暮らすしかないと彼女に激しく迫ったのだった。
彼女は私のあまりの激しい剣幕に、「わかった、もう出る」と言ってアパートを探すことを約束。その後、彼女が私の家を出るのには2週間も掛からなかった。

続く

 

◆プロフィール
安積 遊歩(あさか ゆうほ)
1956年、福島県福島市 生まれ

骨が弱いという特徴を持って生まれた。22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。

著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。

2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。好評で再放送もされた。

 

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