土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)
自信と驕りの違いを考えたとき、まずは自信も驕りもどちらも、本人にはあまり自覚なくなされているのではと思いました。それは、ご自身は自信がありますか、またはいい気になっていたり思い上がっていたりの驕りがありますか、という質問にどちらもイエスと答える人はなかなかいないように思うからです。
ただ、自信については部分的に自負されている方はいる印象で、それはその方が過去を振り返って、このような実績を作ったから私は〇〇に自信がある、という発言を耳にすることがあるからです。こうした発言は過去のご自身に対する自分自身への栄誉なのかもと聞こえます。
また、驕りについても過去を振り返ってという点はあり、かつての自分は思い上がっていたなとか、あの行動は自分の驕りゆえだったと自戒することが誰しもにあるような気がします。
また、自信については過去のものでも現在のものでも、私は自信があります、と大声で言えば言うほど空虚に聞こえてしまい、その方の自信の価値を下げてしまっているように感じることはないでしょうか。その方にとっては自信があると声に出して言えるほどのものであっても、聞いている方からするとなぜか疑心暗鬼になってしまうのですが、これは自信を持つことは驕りにつながり、いずれ失速や失敗をするだろうという予測のもとに生じる感情のように思います。
もしかしたら、祇園精舎の鐘の声、で始まる平氏一族の終焉や、プロダクトポートフォリオの負け犬にも通じる栄枯盛衰が今も昔も違和感なく当てはまることが、この疑わしさを無意識に感じさせているのかもしれません。
ところで、自信については人に持つように言われることが多いです。自分で自覚して唱えることははばかられても、人に持たせる機会や、持ってほしいなと思うことはよくあります。
オリンピックを見ていると、連続してポイントを失った選手たちには、自信をもって、と声をかけたくなり、マネジメント職ができるかどうか不安だという方にも、あなたならできるから自信をもって大丈夫、と必ず声がかけられています。そして誰もがここぞというときに、自信をもっていこう、と自己暗示をかけているのではないでしょうか。
口に出すと違和感があるものの、他人から持つことを望まれたり、自分自身にも定期的に自覚が必要なものというのが自信の特徴だとすると、自信とは不安を払しょくするために、他人には与え、自分にとっては表に出さずに心の中で使うべき言葉なのかもしれません。
一方で、驕りの感情はできるだけ芽生えない方がいいものの、あの人最近いい気になっているよね、というように他人の感覚や意見をもってはじめて自覚することが多いように思います。
伝えてもらえるのならばいい方で、陰口や裏腹な対応をされ、裸の王様のようになってしまうこともありますし、なぜそのような言われ方をしなければならないのか皆目見当がつかないということもあります。単なる嫉妬ややっかみであれば意に介さずでいいのですが、そうでない場合は注意が必要かなと思います。
そうでない場合の一つのケースに、昇進に伴う組織の驕りを挙げたいと思います。昇進とは、実績に対する評価や人間性、そして今後の期待を込めて様々な角度から採点をされて行われるもので、最終的には会社の判断ということになります。
何項目もある採点ポイントにおいて、候補者はすべてが満点ということはなく、どこかのポイントは実は落第と及第のすれすれで、できれば改善を要する項目があったりします。それでも、方向性としては昇進か留任の二択しかないため、わずかでも振り子が昇進に傾くと昇進という決定が下されます。
すると、昇進を決定した側も、拝命した側も、実は存在した改善ポイントをなぜか忘れてしまう傾向にあるように思います。本来なら改善が必要であり、改善の経過観察をすべきポイントが昇進のゴーサインとともにフラットになってしまうかのようなのです。
それでも、その方の昇進は会社の決定なので、賞賛と期待を込めて周囲にも本人にも認知と承認がされ、新管理職の誕生ということになります。必要であった改善ポイントに少々違和感があっても、一定の裁量が新管理職の方に委ねられることになり、新体制で業務が始まります。
そして期待と裁量のもとにその方にはチームの現状と結果報告に業務の重点が置かれるようになっていき、会社も新管理職の方のレポートを重視し、他の誰かが訴える声に気づくことが少しずつ難しくなるように感じています。
これは、会社が自ら作った人事制度とその制度で昇進した新管理職の方を全面的に信頼する義務を自らに課したために、信頼をわずかでも損なう事態に耳をふさいでしまうかのような現象です。そしてここに組織の驕りが少しずつ現れてきてしまうように思います。
それは、本来なら必要だった新管理職の方に必要な改善ポイントがいつの間にか組織にとってもその方にとってもうやむやになりがちだという点です。改善ポイントが、もしパワハラやセクハラに少しでも通じる言動だったり、コンプライアンス遵守を軽視しがちな傾向だったり、会社の理念に対する理解不足のきらいがあった場合、それがだんだんそのチームに浸透してしまい、次第にその方のチームそのものが脅かされるような事態になってしまうように思うのです。
真っ白な歯にポツンとある小さな虫歯が実は根の深いもので、放っておいたところ歯槽膿漏になってしまったかのような事態です。この驕りはなかなかリアルタイムで自覚がしづらく、チームに亀裂が入って初めて、あのときの会社の判断には過信ともいうべき驕りがあったのだろうかと振り返ることが多いように思います。
同じようなことは人事面だけでなく、会社の経営方針にも当てはまるように思います。役員の合意形成のもとに決定した事項も、実はどこかに小さな違和感や疑問を感じるものの、イエスであった場合、ノーであった場合の比較衡量により総合的にイエスと決まることが少なくないように思います。それが悪いということではなく、小さな違和感が大きな欠陥にならないように定期的にその違和感をモニタリングすることが必要ではと思っています。
株式会社土屋では小さな声に耳を傾けることを課しています。社員の方々、クライアントの方々、そしてどこかで何かに困難を感じている方々の小さな声に耳を傾け続けることが、この会社を健康的に存続する術なのだと私自身は思います。
吉岡 理恵(よしおか りえ)
CLO 最高法務責任者