寄付するということ
~株式会社を社会の公器にする~
私は非営利組織や非営利の取組みに対して、もともと積極的に寄付を行っていますが、最近それに対する社内からの反論の声を耳にすることがありました。あくまでポケットマネーでしていることなので議論に発展することはないのですが、それを通じて企業として寄付することへの社内での合意形成が容易ではなさそうだという印象を抱いています。
寄付はリターンを目指す投資とは異なり、基本的には「贈与」であるため、寄付に反対する真意は測りかねるものの、うがった見方としては「会社のお金をどこかに寄付するくらいなら、内部留保にあててほしい、または自分の役員報酬や給料、ボーナスを上げてほしい」という心の声が聴こえなくもありません。
もちろん、一般的には各々が自身の所得の最大化を目指しているわけであり、また介護労働者の低賃金問題は解決するべき社会課題でもあるので、その意見が間違っているとは全く思いませんし、まずは介護労働者の待遇改善を最優先の課題の一つとして引き続き取り組む所存ではありますが、改めて「企業として寄付すること」の意味について考えさせられるところではあります。
先日も、公益財団法人Soilと、当社がコラボをしているPoliPoliの共同企画「Soil×Policy Fund」第2弾に個人的に寄付することにしましたが、それに関しても一部の方からあまり前向きとはいえない見解が出されました。
「Soil×Policy Fund」は寄付ファンドで、資金を集めて運営に困っているNPOなどに寄付をするプロジェクトです。主な対象としては若者の貧困やホームレスになった若者たちをサポートする団体、ヤングケアラー協会、冤罪事件などの公共訴訟を扱う弁護士団体などで、この模様はプレスリリースでも発表されたのでご存じの方もいらっしゃるかもしれません。
そして、本プロジェクトに参加しているメンバーの多くが、いわゆるIT長者ないしはニューリッチと呼ばれる、若くしてITベンチャーを作り、成功して上場させ、多額の資産を持つに至った方々のように思われます。
私が寄付できるのも、役員報酬や株主としての配当で収入が少なからずあるからですが、彼らのように巨大な資産を有するわけではありません。けれども、かつての社会活動家としての経験から、意義ある活動が必ずしもマネタイズできるわけではないことを承知しています。
我々の事業自体、制度化されたことによりマネタイズできる事業となりましたが、当初はボランティアに支えられたサービスで、行政からの援助もほぼありませんでした。その中で、多くの人の寄付や善意によって支えられていたものでもあります。
こうした価値ある取組みは他にもたくさんありながらも、例えばホームレス支援や子ども食堂などは未だ行政からの支援も通例はなく、1円にもならない、志のみによって支えられている活動です。だとしたら、我々の場合と同じように、誰かがそうした取組みを支える必要があると考えます。
それに対して疑問の声が多く上がっている現状を見るにつけ、「企業として寄付すること」の意味は何かを考えざるを得ません。
まず大前提として、「企業は誰のものか」ということがあります。昨今、大手中古自動車会社や大手アイドル事務所、大手介護事業所等の不祥事が相次いで発覚し、社会全体を巻き込む大問題となりましたが、その際によく耳にするのが「企業の私物化」です。
企業の資産で、何十億もするような別荘が日本中あちこちに建てられていたり、某大手アイドル事務所に至っては、企業の金銭的な資産だけではなく、資産の一つでもあった従業員、すなわちアイドル歌手を自分自身の欲望のターゲットとした。これが企業の「私物化」の典型だと思われますし、このような企業の私物化による問題が同族経営、すなわちファミリーカンパニーにおいて生じやすいことはよく知られているところではありますが、その際にこの「企業は誰のものか」が問われるわけです。
これについては、企業が成り立っているのは、サービスや製品によるので“顧客のもの”だと言う人もいれば、働いている人の存在あってこそだから“従業員のもの”だと言う人もいる。あるいは社会全体の中におけるその会社のパーパスがあるわけだから公の器、すなわち“地域社会のもの”だと言う人もいる。
解釈としては、これらはすべて正しいと思いますし、企業経営者はそのような考えに基づいて、自分たちを取り囲むステークホルダーとの信頼関係構築に努めていくべきと考えます。けれど事実はどうかというと、会社法には、企業の資産は“株式を持っている人”に帰属することが明記されています。つまり、企業が従業員・顧客・地域社会のものであるというのはあくまで解釈、もっというならば倫理的な決意表明であって、事実は法律にある通り、「株主の所有対象」だということです。企業の資産である土地・建物、キャッシュ、有価証券などはすべて株主に所有権があり、自身の持つ株式の保有割合に応じて帰属するわけです。
実はこの潜在的事実が顕在化する瞬間があります。それは「企業オーナーの死」の時です。通常は遺族によって亡き人の資産が承継されますが、企業の株式も例外ではありません。また相続される資産価値に応じて相続税が遺族に課されますが、これはその亡き人が保有している株式会社の純資産も例外ではありません。企業規模にもよりますが、個人資産とは「桁違い」であることはいうまでもありません。
その企業が保有する、個人からみれば「桁外れ」の資産に応じた相続税が遺族に課され、通常は数か月以内の現金による納税義務が発生します。これはもちろん多くの方々が「企業は誰のものか」というテーマにおいて語る“顧客”、“従業員”、“地域社会”が肩代わりすることもなければ、実はそのオーナー経営者が株式を保有する企業が代理納付することすら、代理納付するために金融機関から借入することすら、原則的にはできません。
「企業オーナーの死」のあとに「桁外れ」の相続税の納税義務を負うのは、あくまで遺族個人です。これが「企業オーナーの死」とともに多くの企業がM&Aによって売却されたり、または廃業したりする本当の理由であり、「みんなのもの」であったはずの企業が、実は私的所有の対象であったという潜在的事実が明るみになる瞬間です。
というわけで、株式会社は私物であり、その資産がどう活用されるかは最終的にはオーナーの裁量に委ねられています。けれど、その自由が間違った方向に行使された時に、社会全体を巻き込む様々な問題を引き起こすことになります。
とはいえ、それは決して「私物化」ではありません。というのも、私物化とは、あくまでも公のものや他人のものを自分のもののようにした場合に使用されますが、そもそも私的所有対象なので、自分のものを自分のものとして使う時に「私物に化ける」ということはありません。とすれば、株式会社がしなければならないことは私物化ではなく「公物化」であり、株式会社に求められるのは、私物化を禁止するのではなく、「公物化」を追求することだと思われます。
そして株式会社を公物化、すなわち「社会の公器」にするという際によく言われるのが「上場」です。上場すると非公開の企業が公開され、個に閉じた私有財産であった株式が、いわゆる株式市場で売り買いの対象になります。大根農家の方が、自分たちだけで大根を食べていたところを、大量に余ったので市場へ持っていって他の人に売るのと同じです。
上場されると、誰もが証券会社でその企業の株を買えるようになり、多くの人がその株の保有者になることで、1人ないし少数によって閉ざされていた株式がオープンなものになっていく。多くの人が保有するため、上場した企業のことを「社会の公器」といい、これをもって初めて私有財産から公共財産になったという捉え方がなされます。これは前述したように、企業の私物化による問題が往々にして同族経営のファミリーカンパニーにおいて生じやすいことを考えると正しい一面もあるとは思います。上場することで、その基準に足りうるコーポレートガバナンスが経営陣に求められることにより不祥事が発生しづらくなることも紛れもない事実ではあります。
けれど、私はここに一抹の疑念も抱いています。というのも、株を購入する人たちの動機の多くは、配当金(インカムゲイン)や売却時の収益(キャピタルゲイン)です。そして、その収入を何に使うかといえば、人によって様々だとは思いますが、大金を持って夜の街に繰り出す人もいれば、高級車を買う人もいるかもしれません。つまり様々な形があるにせよ、個人の欲望を実現するための手段、自身の欲望の最大化として収入を使う方が少なからずいると思われます。
そのようなインカムゲインやキャピタルゲインのあくなき追求をモチベーションとする投資家が、企業の最高意思決定機関である株主総会で発言権を持ち、日々経営陣に対してプレッシャーを与え続ける上場企業において、その経営を担う方々が日々数字に追われた事業運営をおこなわざるを得ず、結果、長期的視点が欠如していくということも周知事実ではあります。
そのような背景を考えると、果たして株式の保有者が単数から複数に変わったことによって「社会の公器」になったと言えるのか、いささか疑問を感じます。上場は社会の公器になったのではなく、私的所有が複数化しただけに見えなくもありません。
とすれば、株式会社の「公物化」とは何か。それを考えるに当たり、まずは“公の本質“を知ることが必要になると思われます。一般的に私物と公物の違いは、“私”=“個人や、個人が保有する会社”であるのに対し、“公”=“国や地方自治体などの行政機関”というように分けられます。そして“公”である行政の経済を回しているのは、言うまでもなく「税」です。すなわち、税の塊こそが国家であり、地方自治体です。国家公務員や地方自治体の職員は「税の思想」を体現しているということもできます。
であれば、“公”の本質を見るには「税」の本質を知ればいいということになり、今日的な意味におけるその税の本質は、一言でいうと「利他」だと私は考えます。
「利他」とは、他人の利益になるように図ることですが、税の最大の特徴は、払う人と貰う人が別の人だというところです。所得税・法人税、そして消費税であっても、基本的には収入を多く得た人・企業ほど多く払うようなシステムになっている通り、所得と納税は連動しています。それに対して、税の受取り手、再分配の対象になっている人は、障害者総合支援法の支援を受けている人や、生活保護を受けている困窮者、シングルマザーの人たちといったように、税金を原資とした社会的支援を受けている人たちです。
税というのは基本的に所得格差を是正するためにあるものなので、高い所から低い所に流れるような枠組みになっています。つまり、税はそもそもその本質が寄付行為に類似しています。それゆえ、公の本質というのは「利他」であり、持っている人が持っていない人に贈与する仕組みが内在されていると思われます。
そしてそれが公共性の本質であり、公器である証しだとしたら、上場して個人の欲望の最大化を図る人たちを複数化したところで、もし彼らが他者の利益への考慮や配慮がなければ、それは公器になったとはいえないのではないかとも考えられます。
では、どうすれば株式の保有者の私物である企業を公共化することができるかというと、やはりこれは私有財産の保有者、つまり株式会社における株主が「利他の精神」に目覚めて、自身が保有する資産(会社の資産を含む)の一部を、社会的支援を必要としている人たちに回すことで可能になると考えます。まさに、税を集めて再分配する利他行為のエージェンシー(代理人)ともいうべき地方公共団体や国家公務員がしているような役割を、資産家がすることこそが「私企業の公共化」だと思います。
結論として、株式会社の資産は事実としては株主に属し、社会福祉法人でも一般社団法人でも公益財団法人でもない、あくまでプライベートカンパニーです。しかし、それが「私物化」と言われ、社会に問題をもたらすのであれば、それを回避する必要があり、そのためにはやはり会社の資産の保有者である株主が、自分自身に与えられた使命・責任を自覚し、贈与の精神をもって分け与える取組みをすること、すなわち「寄付すること」が求められるのではないかと個人的には考えます。
そして、これこそが株式会社の私物化ならぬ「公物化」であり、社会の公器を生み出すためのアプローチとして上場とは異なる、より本質的な取組みと考えます。株式会社が上場してもそれは私物の対象範囲が拡大するだけで、公物化するのは、今のシステム上は資産の保有者が目覚めるしかない。ないしは共産主義革命を起こして私有財産を国家権力の保有財産にするしかないと思いますが、後者は20世紀に試みられた壮大な実験において失敗が証明されてしまったわけです。つまり今のシステム上は、公共化は企業においてオーナーシップを持つ方々の寄付によってこそ、でき得ることだと。
ビル・ゲイツは現在までも多額の資産を寄付し、将来的には全額を寄付すると公言しています。「Soil×Policy Fund」のメンバーもそれぞれ多くの資金を寄付していますし、中にはすでに保有資産を全額寄付し、一切の資産を家族に承継することは考えていないと宣言している方もおられます。
また、当ファンドのメンバーには、お金を使う遊びはやり尽くしたとおっしゃる方もいらっしゃいましたが、中にはその「空しさ」を語る方もおられました。いくらお金があり、遊び尽くしたといえども、大した喜びはなかったと。その中で、目の前にあるお金に疑問を抱き、世のため人のためになることやりたい、そうすることでやっと幸せになるんじゃないかと感じているようです。
何百億も資産を持っている人たちが己の不幸を語る。「なに言ってるんだ」と思うかもしれませんが、それが実にリアルなんです。欲望の追求をやり果てて、そこに空しさしか残らず、最後に見出したのが「一度でいいから他の人に褒めてもらいたい。偉いねと言ってもらいたい」ということのようなんです。
というわけで、私も今回、「Soil×Policy Fund」に個人的に寄付しました。また、株式会社土屋の株主である以上、今後は企業としても積極的に―もちろん安定的経営に支障のない、また従業員の待遇改善にも引き続き取組むことのできる、ささやかな余力の範囲ではありますが―寄付を行い、マネタイズが困難ではありながらも社会の片隅から聞こえてくる「小さな声」に応えようと努めている方々に対する資金的な支援をすることにより私的資産の公物化を図り、よりよい社会の実現に向けた共同プロジェクトの一端を担っていきたいと考えております。