職業について④ / 浅野史郎

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

1989年(平成元年)6月、厚生省の人事異動で社会局生活課長に就任した。前任の和田勝さんから、「浅野君、生協は無限の可能性を持っている、夢のある仕事だ」と引き継ぎの時に言われた。いい意味の先入観を持って生協関係の仕事に取り組んだからだけではないが、やってみると確かに面白い、夢がある。一人一人が協同しながら、さまざまな事業に挑戦していく生協の姿が素敵である。私はあっという間に「生協大好き人間」になってしまった。

生活課の所掌事務の中に婦人保護がある。生活課長に異動になってすぐに、私は東京都の婦人相談員の兼松佐知子さんに会いにいった。アポイントメントなしに訪ねて行った私に兼松さんが教えてくれた。「売春は女性の人権問題であり、人を差別し、人の幸せを破壊していくものです。本人にとっては、ゆっくりとした自己崩壊ともいえる形です」。

性に関わる人権侵害は売春に限らない。性暴力、未婚の母、ヤクザのヒモなどなどに関わってくる。兼松さんは自分が関わった数々の事例について淡々と語った。

「うーん、これは本気でぶつかってみる価値のある仕事かもしれない」と思った私は、早速「婦人保護問題懇談会」を始めた。前職での「障害者の人権問題懇談会」の婦人保護版。ここでの議論はとても有意義で面白かったが、そこから具体的な施策に結び付けないうちに、人事異動で生活課長を辞めさせられた。

社会局生活課長から厚生年金基金連合会(現・企業年金連合会)への出向を命じられた。ポストは年金運用部長。「本省から外郭団体に飛ばされた」と思い、挫折感すら覚えた。組織での出世栄達にまだとらわれている自分がいた。しばらく、うじうじ、ぐずぐずが去らず、目の前に暗雲が立ち込め、落ち込んだ。

新しい仕事に就いて、「うじうじ」、「ぐずぐず」がなくなるのに、それほどの時間はかからなかった。年金基金の資産運用という、私にとっての初めての仕事。未知なる金融の世界は魅力一杯であった。扱う金額の単位が違う。厚生省の予算はミリオン(百万円)単位、一方、資産運用はビリオン(十億円)単位である。扱う金額の大きさだけではない。金融、資産運用の仕事は中身が濃くて深い。今まで付き合ったことのない投資会社、信託銀行、生命保険会社の資産運用のプロと丁々発止やりあったことは、得難い体験であった。

厚生年金基金連合会での仕事を終え、2年ぶりに厚生省に復帰した。新しいポストは生活衛生局企画課長である。就任日は1993年(平成5年)6月29日。その日の夕方、地下鉄赤坂見附駅で定期券を購入した。その際に、1ヶ月定期にするか3ヶ月定期にするか、一瞬、ほんの一瞬、迷った。その日に石井亨仙台市長がゼネコン汚職で逮捕された。1ヶ月半後には出直し市長選挙が行われる。「ひょっとして、私が候補者になるかもしれない。そうしたら、1ヶ月半分の定期券が無駄になってしまう」。こんなことが頭にあったので、一瞬迷ったのである。

それから3ヶ月経った9月28日、定期更新のため赤坂見附駅に行った。その前日に本間俊太郎宮城県知事がゼネコン汚職で逮捕された。この時に買った3ヶ月定期、1ヶ月半しか使わなかった。厚生省を辞めて、宮城県知事選挙に立候補したからである。

生活衛生局企画課長は4ヶ月しか務めなかった。何もしないうちに終わってしまった。企画課の課員には迷惑をかけた。課長が前触れもなく突然やめてしまうのだから。人事当局も後任を選ぶのに難儀しただろう。状況からいって仕方がなかったとはいえ、組織に迷惑をかけてしまった。

突然に役所を辞めて、ふるさと宮城県の知事選挙に勝算もないのに立候補。どたばた選挙の話は省略するが、当選してしまう。辞職の20日後の1993年(平成5年)11月21日、浅野史郎(45歳)は宮城県知事に就任した。

続きは次回。

 

◆プロフィール
浅野 史郎(あさの しろう)
1948年仙台市出身 横浜市にて配偶者と二人暮らし

「明日の障害福祉のために」
大学卒業後厚生省入省、39歳で障害福祉課長に就任。1年9ヶ月の課長時代に多くの志ある実践者と出会い、「障害福祉はライフワーク」と思い定める。役人をやめて故郷宮城県の知事となり3期12年務める。知事退任後、慶応大学SFC、神奈川大学で教授業を15年。

2021年、土屋シンクタンクの特別研究員および土屋ケアカレッジの特別講師に就任。近著のタイトルは「明日の障害福祉のために〜優生思想を乗り越えて」。

 

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