土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)
大学生の頃、ワイン一本飲まないと寝られなかった頃のこと。
いつものように散らかった部屋で飲んでコタツで寝落ちしていると、点けっ放しだったテレビジョンの画像が、しょぼしょぼの眼球に光線を送り込んできました。
何やら白っぽい人が野原でうごめいている様子でした。
膀胱がパンパンだったので、一応社会正義を守ろうと便所で用を足し、若干の正気を携えて、さっき見間違いだと思ったテレビに目をやると、やはりさっき見たような様子が画面に映っています。
野原に丸く人だかりの輪の中に、白くしわくちゃのお爺さんが、ひだの多いしぼみかけた気球で作ったような、古代あった巨大な花が萎れはじめたような白い服を着て、その服と座る玉座が溶け合っているような座り方で、空を仰いで両腕と手首を、それぞれ別の樹の枝がいい加減に吹く風に揺れるような動きでそよがせて、そこに映っていました。
空から何やら花びらが、たくさんたくさん降ってきて、お爺さんは笑うのか泣くのか、ただそこに顔のようなものがあると言った表情で、そよいでいました。
小雨も降っているようでした。
私はこれを見て、
「美だ、これは美だ」
と思ったと思います。
その人の名前は、「大野一雄」。あれは舞踏と言うらしい。
一緒に花を散らした共犯者は、生け花の鬼「中川幸夫」。
その番組を、目を皿のようにして見て、知りました。忘れないようにしました。
酔った頭に換気の良い穴が空いたような、やっと息ができたのに恐る恐る息をしてみるような感覚でした。
次の日から授業そっちのけで学校の図書館や、近所の大きな本屋を2、3軒見て回って、「大野一雄」や「舞踏」という文字を探し回りました。
そしたら「土方巽」という「大野一雄」と同時代の舞踏家の人について書かれた本がありました。買って読みました。
『病める舞姫』という土方の著書についての本でした。不思議なことばかり書いてありましたが、ただただ嬉しかったので、これも買って食い入るように読みました。
本の中にはいくつも写真があって、一緒に大野一雄も写っているものも何枚かありました。
文章も面白かったのですが、やっぱり舞踏そのものが観たいので、その写真を食い入るように見つめてその動きや気配を想像しました。
「動き」も「行動」も、いつでも中断してしまえます。
「生きている」人が「死んでしまう」ことはあります。
それは、計ってあるもの、決まっていることなのか、簡単に言って仕舞えば(ほら「舞」という字)運命なんていうことなのか。
運命ってどう付き合うのが一番面白いのか。
「即興」ということを考え始めたのはまさにその頃だと思います。
計画はいつまで計画なのか。そんなことを考えていました。
後々自分の家にあった雑誌(しかも音楽の記事はしこたま読んでいた号でした)の中に、大野一雄のインタビュー記事が載っていることに気付いて「運命」の差配に驚きました。
実はその頃の2003年ごろから、大野一雄が100歳過ぎて亡くなるまで、横浜の方にある稽古場にいつか行きたい、大野一雄に会いたいと思っていましたが、出不精が災いして、とうとう今生(輪廻・生まれ変わりがあるという前提で言う、「今この度の生」)は直接会うことは叶いませんでした。
しかし、この「失敗」こそが、その後の私の人生に於いて「動くぞ」「今を逃すまい」という動機に火をつけて、実際に体を動かす決意をさせるスイッチの一つとなっていると思います。
大野一雄は稽古の様子を映した映像の中で、「自分が本当に、腹の底から、こうしなきゃ、例えば腕を『こう挙げなきゃ』という気持ちが湧き上がってそれが体と矛盾しなくなるまで、やっちゃいけない、出来合いのこと、「こうやった方が見栄えがいいかな」なんて気持ちでやっちゃいけない」
なんてことを言います。
舞踏は、場の共通認識が共有されていない人から見ればただの不審者の変な動きです。
でも、見よう、観ようという意識がそこに介在すれば、それは「舞踏」になります。
「生きる」ということもそれと同じだと私は思います。
世間では孤独死=この世の不幸と言わんばかりですが、「さっぱりした」「満ち足りた」孤独死なんてことも、本人がそう感じていたとすれば、起こりうることです。
自分の内から湧き上がってくる感情が自分を満たして、それと寸分の乖離なく振る舞うこと。
そんな幸せな状態は「舞踏」の状況にしか起こり得ないことなのでしょうか。
実は私はそう思っていないのです。
社会的、法的、商的、その他様々な不均衡や軋轢があっても、自分の中に灯るものがあるという一点で、私は満ち足りるという自信があります。
そして、皆さんも実はそうなんじゃないんですか?と問いかけて、今回はおしまいにします。
こいつと何か話してみたいと思った方は、TwitterやLINE、Facebookで遠慮なくお問い合わせ下さい。お返事に時間はかかるかもしれませんが、是非是非。
大野一雄は、あれ以来、私の中でずっと踊っています。
◆プロフィール
牧之瀬 雄亮(まきのせ ゆうすけ)
1981年、鹿児島生まれ
宇都宮大学八年満期中退 20+?歳まで生きた猫又と、風を呼ぶと言って不思議な声を上げていた祖母に薫陶を受け育つ 綺麗寂、幽玄、自然農、主客合一、活元という感覚に惹かれる。思考漫歩家 福祉は人間の本来的行為であり、「しない」ことは矛盾であると考えている。