土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)
若い頃は歩合色の強い仕事をしていたこともあり、同僚や他店に数字で勝つことを強く意識しました。周りと収入を比較したり、良く見せようとブランド品を持ってみたり、高いお酒で見栄を張ったりもしていました。ライバルには笑顔で接するものの、裏ではコケることを願ったものです。
人は勝って幸せになるのではなく、与えて幸せになる、と仏教でいわれています。
30代の頃であれば、耳に入らなかった言葉かもしれません。しかし50も過ぎた今の私には沁み入るものがあります。
勝ろうと努力することは、決して悪いことではありません。それがあって今がある、と思います。しかし当時は「与えることで幸せ」と聞いても「そんなの綺麗ごと」と一掃していたことでしょう。人は無意識にも他人と比較しますので、どうしても人に勝ろうとしてしまう。私も勝ることで幸福感を得ようと一生懸命だったからです。
しかし勝負の世界は、1回勝って終わりではありません。勝ち続けなければなりません。しばらく勝っても、負ける、奪われる不安は拭えず、比べる相手によっては、あっさりと負けてしまう。相手が勝てば私が負ける、私が奪えば相手は奪われる。この土俵では、心安らぐことはありません。
一方、与えることができることは、感謝すべき事と今は思います。与えたつもりが、与えられることも多く、自身の心を満たす行為であることも頷けます。
さらに行為は、思いが基であるから、どんな心から行っているかが重要といわれます。
どんな心から?と問われると、普段は見ようとしない心が見えてきます。
15年以上前になりますが、何度も失敗していた禁煙に成功しました。そして、浮いたタバコ代を国境なき医師団に寄付することを始めました。それはよいのですが、問題はその額。他に多額の寄付をしているわけでもないのに、生活に全く支障のない金額に留まっています。
気軽にできることと割り切ればよいかもしれません。しかし、飽食の時代、社会保障もある国にいて、それが自分にできることなのか、なぜその額なのか、釈然としない思いから自問せずにはおれません。
途上国への贖罪の念から、わずかばかりのもので、罪悪感を薄めようとしている心が見えます。これは自身の承認欲求を満たしたい心の現れでもあります。
子供の命を救いたいと強く願う心はあるのでしょうか。飢餓地域の食料やワクチンで守られる命より、娘の養育費や自身の生活ばかりを考えてはいないだろうか。
世界から飢餓が無くなればよいと思ってはいるものの、私の大事なものに影響ない範囲のもので、と線引きしています。私は平時ですら人命より「私の何か」を優先してしまう。この先も、私の娘、私の心、私の〜だから、から離れることはなさそうです。
昔聞いたあの話
地獄にも天国にもご馳走と長い箸があって、地獄では、長い箸を自分の口に運ぶから、上手く食べられず、飢えていて、喧嘩ばかり。天国では、周りの人の口に運ぶから、満たされ、感謝している。といった内容の話です。
初めて聞いた20歳の頃は、素直に良い話と思いました。社会に出ると、そもそも長い箸の必要ってあるの?意地悪?と思うようになりました。
しかし今思うことは、長い箸でなければ、他人の口に運ぶような行いは生まれなかったのではないか、ということです。短い箸では自分の口に運ぶ人が多いから、長くなければならなかった。長い箸を持つことで、本来、我が利益しか考えない私が、人に食事を運ぶ行為ができる。そして、運んでもいただけて、感謝し感謝される。短い箸を選んでは、成し得ない環境ではないかと。
当然のことながら、私の周りには長い箸だけではなく短い箸もあります。多くの選択は自分次第です。苦しいときに親切を施すことなどは、簡単なことではありません。
しかし、乏しき時与えるは富みて与えるに勝る、といわれるように、与えることは、受け取る側の一助にもなり得ますが、与える側の得られる幸福感も大きいのではないでしょうか。苦しいときに与えてこそ、承認欲求がより満たされ、それは大きくなるように思います。
疲れて座席を立てないことや、欲が交錯して、寄付の金額に悩むことは、これからも変わりそうにありません。贖罪、偽善、その思いも無くすことはできない。それらを抱えて社会に貢献すべく欲を満たしていきたい。
私の素直な心は、良い人と思われたいし、認められたい、孤独は嫌だ、良い社会に住みたい、幸せになりたいと思っています。
これらの欲求は、人の役に立つことで満たされることから、社会貢献と相反するものではありません。
自身のためにすること、自身の欲を満たすことが、そのまま人の役に立つことを選択したい。それが私の自利利他の道であり、私が進みたい持続可能な利他行と思うのです。
◆プロフィール
小林 照(こばやし あきら)
1968年、長野県生まれ
学生時代は社会福祉を専攻し、介護ボランティアに携わる。2005年、不動産会社起業。現在は病気を機に仕事をセーブし、死生観、生きる意義を見直し、仏教を学び中。