土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)
私の家にはテレビがない。幼い頃に大好きだったが、22歳で親元を離れた頃からテレビは観なくなった。しかし自分では観ないのに、なぜかテレビをくれる人がいて娘を育てる時にはテレビは押入れの中にしまっていた。
今回オリンピックが始まってテレビを観ていなかった自分に感謝している。テレビがあまりにも残酷な情報を伝えてくるのでそれを観続けていることは不可能だからだ。
私にとってオリンピックのメダル競争は、人間として信じがたい冷酷な行動だ。メダルを獲って喜ぶ人の下にコロナウィルスの感染症の数字が載っていると聞く。その数字で表された人たちの苦悩、痛みは命がかかっているものなのだ。それに対していくら自分がやりたいことであると言っても、命をかけてやらなければいけないことは、人生でただ一つ、出産だけだと思ってきた。
私は娘の出産に際して医者をしている友人から手紙をもらった。もしかしたら自分の命と引き換えになるかもしれない出産よりも、「私は今あなたに自分の命を生きてほしいと心から言いたい」というものだった。彼女は専門家として私の体の状況を鑑みて、あまりにもリスクが大きいと思ったのだろう。私への命の愛情あふれる手紙を見ながら、それでも私はお腹の中の子が「私も生きてあなたに会いたい」という声が聴こえる気がした。
40歳になっての出産はただでさえリスクが大きいのに、命をかけてでも産もうとしたのは、20代の時であったら諦めていたに違いない優生思想に立ち向かい続けた人生あっての決断だった。
その私の視点から見ると、オリンピックは自分のやりたいことをとことん追求できる命は生きていい命だと世界中に宣言、宣伝しているとみえる。それに対してコロナにかかり生きるか死ぬかの戦いをしている人には注目もお金も全く十分かけられているとは、到底言えない。ただ生きるか死ぬかの根源的な戦いをしている人をただの数字で表して、メインの画面にはメダル競争を写しているわけだ。この大量消費至上主義の中で、正に命も消費されるものでしかないということを画面を使って洗脳されている。
私たちは2016年山百合園事件を体験し、一人一人がうちなる優生思想に少しは向き合えたのではなかったろうか。19人の命を殺害した私たちの社会は、今度はコロナウィルスとの戦いに命をかけている感染者たちを医療逼迫崩壊の中でひたすら死に追い込んでいるのだ。
無観客だから対策はしているというがそれでも10万人近い海外からのアスリートや関係者がこのパンデミックの中暑くて小さな島国に移動してきているのだ。緊急事態宣言を出しながら日々感染者数を拡大させているのは、まさにオリパラは生きること、命を守ることより勝ってメダルを取ることが大事なのだという、笑止千万の倒錯した世界である。
せめてパラリンピックだけはやめてほしいと私は生きて命を保つことの懸命で賢明な努力をした仲間たちに、生きて命を保つことに壮絶な体験と努力を経てきたであろうパラリンピックのアスリートたちに心から心からお願いしたい。私たちの命と体が教えてくれることが、とにかくまず生きることのすごさ、大切さであるのではないだろうか。パラリンピックに出ようとする選手たちの体が証明しているのが、まずそこであるはずだ。
この状況の中でパラリンピックを行うことは重大な交通事故の現場にいながら、それを全く無視することに繋がる。生きることに戦っている人への注目やお金を奪い取りレースやゲームに明け暮れて良いのだろうか。それはあまりにも非人間性の極みであり、優生思想の側に自分を立たせてしまうということに気づいてほしい。
◆プロフィール
安積 遊歩(あさか ゆうほ)
1956年、福島県福島市 生まれ
骨が弱いという特徴を持って生まれた。22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。
著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。
2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。好評で再放送もされた。