歌は世につれ③ / 浅野史郎

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

エルヴィス・プレスリーとの出会いは、まさに運命的な出来事であった。拙著「運命を生きる〜闘病が開けた人生の扉」の第一章「史郎少年とエルヴィス」から、その出会いの場面を引用する。

「仙台市立第二中学校の三年生、14歳の史郎少年は、毎月1枚だけのレコードを買いに、自転車で一番町の三立楽器店にでかけた。店内で、今月は何のレコードを買おうかと物色している私の耳に、軽快なテンポに乗った力強い歌声が聴こえてきた。今まで聴いたことのない素敵な歌に、魂が揺すぶられた。“こいづ、誰の何つう歌だべ?”と店員に尋ねると“こいづは、エルヴィス・プレスリーの夢の渚っていうのっしゃ”と返ってきた」。「夢の渚」は私にとって最初のエルヴィス・プレスリーのレコード。ここから熱狂的なエルヴィス・ファンになるのに時間はかからなかった。

エルヴィス・プレスリーの名前だけは前から知っていた。足をくねくねして歌う気持ち悪い歌手らしいとの先入観があり、好きな歌手のリストからははずれていた。その意味では、私は遅れてきたエルヴィス・ファンである。「夢の渚」に出会ってからは、時代を遡って、エルヴィスのレコードを1枚、1枚小遣いを全部つぎ込んで買い集めた。ハートブレーク・ホテル、ラブミー・テンダー、ハウンド・ドッグ、監獄ロック、GIブルース・・・・。下校して家に帰るとすぐに、エルヴィスのレコードを最低10曲はかけて悦に入ってる高校時代の史郎くん。レコードが擦り減るぐらいに、エルヴィス三昧の日々であった。

14歳で出会ったエルヴィス・プレスリーは現在に至るまで、私の人生の中で大きな位置を占めている。厚生省に入省して早い時期に、人事院の在外研修生に応募したのも、エルヴィスを生み育てたアメリカに行ってみたいということが大きな動機であった。アメリカのイリノイ大学大学院での留学経験は、その4年後の在米日本大使館勤務につながっている。エルヴィスのお導きがあって、私の人生航路が一つの方向に向かっていくのを感じる。

2000年の8月、当時宮城県知事の私は夏休みを取って、エルヴィス追悼メンフィス・ツアーに妻と一緒に行ってきた。私の妻を除いた21人のメンバーは、いずれ劣らぬエルヴィスの熱狂的ファンである。毎年の命日には欠かさずメンフィス詣でをしている人が何人もいる。1977年8月16日、エルヴィスが42歳の若さで世を去ったのは、メンフィスのグレースランドと呼ばれる大邸宅である。

ツアーのメンバーが6日間宿泊したのが、グレースランドの真向かいのその名も「ハートブレークホテル」。ここを起点にして、ツアーではエルヴィスに関わる多くの場所を訪ねた。ミシシッピ州テュペロのエルヴィスが生まれ育った家、大好きな母グラディと通った近くの教会——エルヴィスの宗教心とゴスペルへの愛が育った。メンフィスに移り住んで通ったヒュームズ高校。初めてギターを買った古道具屋、初めてのレコード“ザッツ・オール・ライト”、“ブルームーン・オヴ・ケンタッキー”が録音されたサン・スタジオ、そしてグレースランドの邸内ツアー。生きているうちに見られてよかったと思うところばかりである。

私が友と呼ぶのはまったくおかしなことであるが、我が友エルヴィスと言わしてもらう。生身では会ったことのない友人である。この友を得たことで、私の人生は、確実にその分だけ豊かなものになったと思っている。

「ボクの初恋はスピリチャル・ミュージックだった。黒人霊歌や、もっと古いものまで。宗教歌として書かれたものだったら何でも好きだ」とエルヴィスはいつも言っていた。ゴスペルのことである。この稿は、ゴスペルだけ29曲入ったエルヴィスのCDを聴きながら書いた。

 

◆プロフィール
浅野 史郎(あさの しろう)
1948年仙台市出身 横浜市にて配偶者と二人暮らし

「明日の障害福祉のために」
大学卒業後厚生省入省、39歳で障害福祉課長に就任。1年9ヶ月の課長時代に多くの志ある実践者と出会い、「障害福祉はライフワーク」と思い定める。役人をやめて故郷宮城県の知事となり3期12年務める。知事退任後、慶応大学SFC、神奈川大学で教授業を15年。

2021年、土屋シンクタンクの特別研究員および土屋ケアカレッジの特別講師に就任。近著のタイトルは「明日の障害福祉のために〜優生思想を乗り越えて」。

 

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