土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)
多様性とは何か?近年よく語られるテーマである。ダイバーシティ&インクルージョンは人事領域でもキーワードとして取り上げられることが多い。
今でこそこのような仕事をしていることもあり、寛容、排除について思考する機会が多いものの今もまだ問いの渦中にある。
原体験からお話すると、自分と違うひとがいるということを最初に認識したのは小学校一年生の頃で、まず見た目の違いに驚いた記憶がある。通学路で見かけた、体の大きさから言うと明らかな上級生は、首を左右に振りながらのしのし歩く男の子だった。
とにかく怖くて、でも怖いという感情を持つことがどこか後ろめたいようなそんな気持ちだった。
その見た目の違いに対する感情ギャップを出発点として、その後、多様な価値観に触れてはきたものの、実は広義的な意味でいうとひとと自分はさほど変わらないと改めて気がついたのはもっとずっと最近だったりする。
その上級生も、同じ町内に住み、同じようなご飯を食べ、同じような遊びをしていたに違いないし、解釈を広げれば広げるほど、実はほぼ「同じ」ということに帰結する。
そうなってくると益々違いの境界線が曖昧になり、領域も広がっていって、他のひとと見た目や振る舞いが大体同じような「自分」から「でもひとは大体同じ」に基準自体が変化をしてくる。もっというとわたしの周りに関して言えば、違っていても特にお互いに問題にはなっていないし、雑談の中で自分がひとと違うことやそのひとの基準からは大いに外れていて、自分がどっち側でもあることに気づかされたりもする。
子育てにおいても、小難しい単語で類型化されることの是非は問われており、以前であれば変わり者、活発、頑固などで形容されていたものが横文字に変換されている。昔はよかったと括ることは憚られるが、もっとおおらかだったような気がするし、その単語と個性を殊更に強調し人工的な安心感へ導いていくような子育て論には、子を持つ親として疑問を感じざるを得ない。
パラリンピックの世界観がそうであったように、世の中にはいろんな人がいて、自分と似たようなひともいればそうでないひともいる。
「自分とひとは違うし、違っていてもいいし、でも大体同じ」ということを認めることからがはじまりなのではないだろうか。
どちらかがどちらかを包摂する、あるいは排除するのではなく、街中のカーブカットのように、あなたもわたしも、実はいろんな場所で、いろんな誰かが助かっていて、そんな多重奏で、いろんな誰もが光り輝く瞬間が、つづくことを願うばかりである。
◆プロフィール
笹嶋 裕一(ささじま ゆういち)
1978年、東京都生まれ。
バリスタに憧れエスプレッソカフェにて勤務。その後マンション管理の営業職を経験し福祉分野へ。デイサービス、訪問介護、訪問看護のマネージャーを経験し現在に至る。