脱施設化に向けて その2 / 安積遊歩

私の施設体験は私のトラウマになっている。だからこの文章を書くことは、ある種そのトラウマからの解放、癒しでもある。施設での2年半、私は、思い切り社会から隔離されていた。もしあの2年半が高校生まで続いていたら、私は人の顔色を見て、同調圧力に合わせて生きることを徹底的に学んだろう。

しかし幸いにも私はワガママと言われ、生意気と言われ、反抗的とレッテルをはられながら、そこからの脱出を画策し続けた。チャンスは夏休みと冬休みに1週間くらい家に帰れるときだった。

「あのまま帰ってこなければよかったのだ。」と2回か3回の帰省後にはいつも思った。しかし、母親は説得できてもなぜか父親は無理だった。「お母ちゃんを泣かせるな。ほら帰るぞ。」と車に乗せられた。隔離され、排除されることが私にはどんなに辛いか、なぜすぐに父には伝わらなかったのか。

今考えると、彼が戦争で体験した加害被害の凄まじい体験によっての行動だったとも思う。彼にとって、権力に抗うことは服従することよりもさらに危険だった。人殺し、殺人鬼となることが求められる中で、逆らえば自分が殺されるという危機感。それは私の辛い辛い状況を丁寧に見てあげようという意欲を粉砕していたのだろう。

「私が帰りたくない。」と言えば母親もまた私を施設に戻したくないと、テーブルに突っ伏して泣いた。私以上の激しい泣き方に、一瞬茫然とする私。そのそばで父親が荷物を運び、私を抱いて車に乗せたのだった。

その施設の中で、3、4回手術をされた。あまりに痛い手術であったが、その前後1週間は母親が泊まり込んで側にいてくれた。当時の友達は、私の母親が無類に優しい人であるということをよく言った。私にとっては母親の優しさはあまりに当たり前のことだった。月に少なくとも1回か2回は1日かけて会いにきてくれた。面会と面会の間には夥しい数の手紙をくれた。何を書いてくれたのか全く覚えていないが、とにかく筆まめな人だった。

私もよく返信した。2年半でその文通は、私の手紙だけで、高さ10センチにもなった。(便箋の重ねた厚さだけで) 多分私はその文通の中で、日常の細々したことも書き綴ったが、一番言ったのは、「早くこの施設を出たい。」ということだったろう。

とにかく集団生活は管理が優先した。人手不足ということもよく聞かされた。だから、仕方がないのだということで、おしっこをする時間もきめられていた。朝昼晩、ベッドから動かない子には、尿瓶を乗せた車付きの台が回ってきて、その時にしておかないと文句を言われた。

私は、3回はもちろん、必ずそれにプラス2、3回はした。それを誰に頼むかが、嫌な思いをするかしないかの分かれ道となる。だから、おしっこや大便のことで毎日随分の時間、思考能力を費やした。

私はその部屋で、一番小さかったし、手術や骨折もよくしていたので、ベッドに縛り付けられていた。だから、ナースコールを押して看護婦におしっこがしたいと言うと、大抵言われるのは「歩ける子はいないの?歩ける子に頼みなさい。」ということだった。

そこからが戦いだった。3、4人いた歩ける子たちは大体年上で、特に私の部屋には退院間近の、その施設の中の、看護婦にもウケが良いボスがいたから、まずその子の顔色を見る。機嫌が良いと稀に「持ってこようか?」というときもあった。

ところが大抵は、不機嫌だから私はすぐに諦める。次にボスに取り入ろうとしている子たちを次々に眺めて、小声で「〇〇ちゃん、おしっこしたいんだけど。」と言ってみる。「はいよー。」と元気よく答えてくれる子は誰もいないが、ここでおしっこを我慢するとまたナースコールで怒られる。元気な答えを期待するのはやめて、彼女らのうちの1人が、ベッドから降りて持ってきてくれるのを期待する。

おしっこはまだいい。便器を頼む時は、なるべく看護婦に頼もうと便意がきても我慢する。なぜなら便器を持ってくる子どもたちは、必ず文句を言うからだ。「お前のうんこは特別臭いんだよ。」とか「もう少し我慢しておけよ。」とか「うんこは毎日するもんじゃない。」とか色々言われた。

この、うんこは毎日するもんじゃない、というのには、最初、本当に驚いた。その施設は、病院とリハビリが複合していて、そこに養護学校が併設されていた。私は骨折と手術ばかりしていたので、2年半全部病院機能のパートの部屋にいた。リハビリ機能のパートを経て、最終的に養護学校の寮に行く。

それが大多数の子の道であった。私はそれが絶対嫌だったから、早急に手術をされて退院しようと思っていた。そこは病院と同じだったから、毎日毎日看護婦に、検温と脈拍とおしっことうんこの回数を聞かれた。最初の頃、みんなの大小便の少なさに嘘をついているとさえ思ったものだった。ベッドに横たわる身となり、尿瓶や便器を使うようになると、自分の健康さを呪う気持ちになった。

大抵の子は、おしっこは3回。うんこは3日に一回だった。歩ける子は、大便を2日に一回というくらいだったが、毎日出るのはベッドの上の私だけ。それでも入院の後半には0回の日も出てきた。0回になると今度は、それが3日か4日続くと、潅腸されるから、きちんと記憶して言わなければならない。潅腸は死ぬほど嫌だったから。

人間は恐怖によって、生理的欲求まで完全にコントロールしてしまうということを施設に入って体験した。毎日のように、便器の持ち運びを頼まなくても「お前のうんこは特別臭い。」と囃し立てられても、「だれのうんこでも臭いものは臭い」とか、言い返すことはさすがにできなかった。もし言い返せば、さらなる孤立と意地悪が待っているだろうと思ったから。

ある時から、私の隣のベッドの子が、夜中にうんこをむぐすようになった。彼女のベッドは部屋の隅にあり、その隣に私がいた。彼女は緘黙症で言葉をほとんど話さなかった。だから、おしっこもうんこも看護婦が回ってきたときにしか頼まない子だった。

私は彼女のおしっこうんこの器用さに驚きつつも、不思議だった。彼女が夜中にうんこをむぐすと、いつもナースコールを押すのは私だった。「〇〇ちゃんがうんこをしました。」と言うと、看護婦が水の入ったバケツと懐中電灯をもってやってきた。そして、低い声で彼女に説教しながら、彼女のおしりを洗い、タオルで拭いた。

今思うと彼女は、私が日中うんこをするたびに、みんなに揶揄われ、いびられているのを聞いて、自分のうんこを我慢しまくったのかもしれない。そして、みんなが寝静まったころに、私にだけわかるようにうんこをし、私に助けを求めたのだろう。

私は彼女が全く話さないけれども、彼女のベッドにしょっ中遊びに行っていた。彼女に話しかけ、彼女の気持ちになったつもりで、私自身に都合の良い返事を自分でした。

私の大好きなおかずをしょっ中もらったり、彼女の得意な手芸で人形の服を作るよう頼んだりした。彼女は、私と年が同じだったし、ベッド生活も長かった。そんなこんなで彼女も私に安心し、夜中のうんこもらしとなったのかもしれない。

私は、朝ごはんを食べるとすぐに出たくなるから、彼女にならって夜中にうんこをするのだけはできなかった。また私がした場合は、部屋中の子が起きて、私をからかってくるのは確かだった。それで彼女にならうのはやめた。

ところで、おしっこに話を戻す。みんな我慢しすぎのためなのか、6人部屋中、4人が紫色のおしっこをすることがあった。つまり血尿だった。膀胱炎なのか、腎臓なのか、次々に他の病院に移されていった。数週間後に帰ってきて看護婦に言われていたのが、「あまりおしっこを我慢してはいけません。」ということだった。

とにかく排泄をつかって、大人が子どもをいじめたり、子ども同士でいじめ合うよう仕向ける場所。看護婦のあの一言は、自分が常々言っていることによって、子どもたちが病気になったということに全く気づいていないかのようだった。集団で住めば、絶対に管理が優先する。生理的欲求も管理されることで、自然なものではなくなってしまう。施設体験は、こどもの生理的欲求さえも、管理する側にとっては、同調圧力と服従を強いるための方策である。それが施設だ。

 

◆プロフィール
安積 遊歩(あさか ゆうほ)
1956年、福島県福島市 生まれ

骨が弱いという特徴を持って生まれた。22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。

著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。

2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。好評で再放送もされた。

 

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