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再び「怒り」について考える、私は正しい!は本当か? / 笹嶋裕一(常務取締役兼CHO 最高人事責任者)

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

この怒りは正しいのか否か。感情が揺さぶられるときこそ冷静になろうと強く思う。

衝動的な怒りとは違って、自分が正しいと定義している類の怒りはなかなか収まらない。

そういうときは間をあける。リフレーミングとは正にその通りだと思う。
自分の胸に手を当ててよく考えてみる。とにかく一晩寝かせ、熟成させる。

怒りの対象である側の背景、かけてきた時間、なにより自分の襟が正しいかどうか。静かに想像する。
それでもなお収まらない怒りがあるならその源流は何なのか。そこまで掘り下げることをよしとしたい。

そうすると、怒りそのものが徐々に変化をしてくる。急にどうでもいいことに思える回数が増え、変化から生まれた余白はいつしか、「そうはいっても先方もいろいろあったのかもしれない」という、ほどよい距離感と調整の時間を与えてくれる。

そもそもとして見ている景色が違う場合も多く、そうなると正しいか正しくないかの二元論で説明すること自体が難しくなる。前提条件が違うことに対して交わることは少なく、平行線はいつまでたっても平行線のままである。

なので私の怒りは正しいかと問われれば、私は正しい。そして同様にあのひとも正しい。

とはいえ怒れる側にも配慮は必要で、発言にはくれぐれも注意するべきである。表現の仕方、言葉の選択一つで、相手の快不快は明確に分かれる。逡巡の中で紡ぐ言葉には場数とセンスが必要なのかもしれないが、誤解こそが怒りを焚き付け薪をくべることになるのはほぼ間違いない。

SNSでは日ごとにターゲットが変わり、怒りが渦巻いている。正義という名の虚構を盾に、無差別に誰かが攻撃されている。その攻撃は、完膚なきまでに、対象が限界を超えるまで止まない。そして一線を越えると、急に手のひらを返し逆サイドに回る。果たしてそれでもその怒りは正しいといえるのだろうか。たとえ正論だとしても、ある対象をそこまで追い込むことが怒りの正しい使い方なのだろうか。純粋な怒りだったはずのものが、いつしか対象を追い込むこと自体を目的としてはいないだろうか。

どうしたって物事の決定には感情が伴うものである。客観的に、事実を、といっても一切の感情を排除することはできない。ただ、感情の割合が多くなった意思決定は、破滅の一歩である危険性も孕んでいるということを認めなければいけない。それほどまでに感情のパワーというものは、優しくて強い。

 

◆プロフィール
笹嶋 裕一(ささじま ゆういち)
1978年、東京都生まれ。

バリスタに憧れエスプレッソカフェにて勤務。その後マンション管理の営業職を経験し福祉分野へ。デイサービス、訪問介護、訪問看護のマネージャーを経験し現在に至る。

 

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