私の中に「福祉」はあるか/牧之瀬 雄亮

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

私が初めて福祉の世界に入ったのは、履歴書的には2008年ですが、その前にどんな“福祉的”関わりが私の人生においてあったか、探してみます。

ふと思いつくのは、非言語コミュニケーションを教えてくれた猫。耳がほぼ聞こえず、微かに見える目と筆談で辛うじて他者とコミュニケーションしていた、いつも浅田飴をくれる大叔母。死の床でその体重を、放蕩息子である私に預けるしかなかった父。どうも周りの人々とリズムか波形かが違う私自身の脳…。

そう挙げてみましたが、「オメーが勝手に持ってる『福祉観』がふるいに掛けて、取捨選択したものなのではねえのか?ど〜なんだいオメ。」と、急に頭の中で声がします。

私なりに真面目に考えてみます。

字引を引きました。

「福」も「祉」も神について表された字です。二つに共通する「示す片(しめすへん)」は神に生贄を備える台です。

また、「福」は酒樽をその台に備える様子を表し、「祉」はその台の前で立ち止まる人もしくは立ち止まることを表しています。

大きな話になって参りました。ついでに長くしましょうか。

古事記に於いて、イザナギ・イザナミの最初の子は、足腰が立たないぐにゃぐにゃの子で、それをイザナギ・イザナミは海に流してしまいます。そうする習わしだからとあります。今の感覚で言えば非常に残酷です。

流された子は蛭子(恵比寿)となり少彦名(スクナヒコナ)となり、帰ってくるとあります。

足腰の立たない赤子が後に神として帰ってくる。古来の日本に、私は「合理的配慮」と丁重に、適切に付き合うと、役に立つ、幸があるという風に捉えられるのではないかと考えます。

一人目の子供が生まれると、というより、母体の中に子の身体が生じた時から、「今までと違う暮らし」が始まります。

性根の座らない人間である私が子を持つことが出来たのは、30の半ば過ぎでした。

家内とまだ見ぬ子の体調や様子に少なからずオロオロするし、生まれたら生まれたで「あれして、これして」と頭も体も使います。

時間やお金が今まで居なかった人に使われる訳ですから、自分だけに使えるエネルギーの分母も減ります。

私の中で一番厄介だったのが「こうしたら子はこうなるんじゃないか」というこちらのエゴの投影をしてしまうことでした。

「海に流す」というのは、そのままを現代社会の倫理観で観れば「罪」ということになるのですが、これを私は

「子の生を認め、自分や妻と似ているが同一人格の一部ではない。きちんと別の個体であることを心に頭に体に精神に、刻みつけよ」

ということなんじゃないかと捉えます。

子供に対し自分ができることは何でもしてやりたくなります。しかし愚かな私の脳は、見返りを求めます。声をかければ反応して欲しいし、出来れば自分のことを気に入って欲しいとも思ってしまいます。しかも短時間で。また、子が何か返しているかもしれないのに、それを自分が認識できない場合、少なからずガッカリするわけです。

他ならぬ自分の子なのだから、こうなって欲しいとか、あれやこれやと期待をかけてしまいます。

自我は現状の維持を強く求めます。

それは生き物の性(さが)ではあるものの、メリットも現状維持する一方、デメリットも現状維持しようとします。

また同時に自分を良い存在と思い込みたいというこれも本能も働きます。

自然界を見ると、考え込んでいる動物はいません。

ライオンの前でインパラが自分の存在意義を考えようと立ち止まると、ライオンに食べられて、もしかしたら死の間際に何かインパラ氏は哲学的境地を悟るのかも知れませんが、共有している暇がないのです。逃げる時は逃げなければならないのです。

人間の脳は、本能に大脳がかぶさっていることで、迷いが生じます。これをデメリットとして捉えるのは人間の脳を活かせていないと言えるでしょう。

もう一歩引いて観測すれば判断の分岐のしやすさ、つまり思考、今時の言い方であればスローシンキングができる面白い脳なのです。

事実この判断の分岐のしやすさをメリットとして活かすべく、私たち人間は主に自分を食べてしまうような大型肉食獣とは距離を置いて生活する判断をこの何千、何万年という歳月の中で下し続けてきました。

誰かのギリギリの思考が積もり、他者に共有され、「常識」となってしまえば、エネルギー負荷の高い思考を経由せず、疑わなくなり、新たに判断をわざわざ下すことをせず、別の個体は別の領域にその思考エネルギーを使う。即ち「思考すべき領域が人類全体に於いて推移する」ということになります。

さて、遺伝子変異のスパンと、人間社会の移ろいやすい価値観を見誤った人類の大きな失敗である優生思想は、障害者施設の強制避妊手術や、ホロコーストに端緒を見ることが多く、それらがしばしばクローズアップされます。

しかし“障害当事者”という言葉があることから見ても、何か向こうとこっちの群れを分けようとする。この序列の癖を人類はいまだ拭いされずにいます。

発達障害という概念は定着傾向にあると思いますが、ならば“普通”のことしかわからないという状態も障害認定してしまって、みんな障害があるってことにしたら、もう少し自殺者も減るんですかね。少なからず皆、学力を含めたスペクトラムを描いてみれば、なんだかんだ「出来ないこと」はあるものです。

脱施設も当然あって然るべきですが、脱生産性、脱ルーティーン、脱平均、脱「普通は」、こういうものを私は待望、いや熱望しているのです。その思考と指向が私自身と私の周りにいる人たちをヒイヒイ言わせたり、反対にウヘヘと笑わせたりします。

一言で言えば私が求めて止まないのは「エントロピーの増大」です。

画一性に収まる個はなく、傾向を持つ集団、集合があるけれどその中ひとつひとつに個があり、差がある。

人間が持つ理性はエントロピー(把握できない複雑さ)の増大を恐れる傾向にあるようです。しかし、種はあらゆる環境を生き抜く個体を繰り出すべくエントロピーの増大を願います。

どっちが愉しいでしょうか。どっちかだけではないんでしょうね。恐れるから愉しいということはあり得ます。

「全ての生命は、唄うために生まれた」

とは、量子力学者、カルロ・ロヴェッリ(『時間は存在しない』の著者)の言葉ですが、私はこれを「全ての遺伝子よ、この世という庭で、大いに自身の味わいを存分に発揮せよ。」と読みます。

私は今、息子が“散らかした”おもちゃを眺めています。放埒・無作為・礼儀知らず・野放図にも見える「遊びの気配」を、眺めています。

その“散らかり”は余計であるとも言えるし同時に美しく、豊穣さの姿そのものです。このとき価値観を入れ替えています。

私が福祉をやる理由はこのようなことだと言ったら、伝わるでしょうか。

◆プロフィール
牧之瀬雄亮(まきのせゆうすけ)
1981年、鹿児島生まれ

宇都宮大学八年満期中退 20+?歳まで生きた猫又と、風を呼ぶと言って不思議な声を上げていた祖母に薫陶を受け育つ 綺麗寂、幽玄、自然農、主客合一、活元という感覚に惹かれる。思考漫歩家 福祉は人間の本来的行為であり、「しない」ことは矛盾であると考えている。

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