「ここにある命は」 / 小林照

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

ありがとうの語源とも言われるお話です。

釈迦が弟子の阿難に「人間に生まれたことをどう思うか」と問うた。

阿難は「たいへん喜んでおります」と答えた。

釈迦が「ではどのくらい喜んでいるか」と重ねて尋ねると、阿難は答えに窮した。

すると釈迦は一つの譬え話をされた。

「果てしなく広がる海の底に目の見えない亀がいる。その亀が100年に一度海面に顔を出す。広い海には一本の丸太棒が浮いている。その丸太には小さな穴がある。丸太棒は風や波に揺られ西へ東へ、南へ北へと漂っている。

阿難よ、100年に一度海面に顔を出す目の見えない亀が、浮かび上がった拍子に、ひょいっと丸太棒の穴に頭を入れることがあると思うか」

聞かれた阿難は驚いて「そんなことは、とても考えられません」と答えた。

「絶対にない、と言い切れるか」釈迦が念を押されると、

「何億年×何億年、何兆年×何兆年の間には、ひょいっと頭を入れることがあるかもしれませんが、ない、といっても良いほど難しいことです」阿難が答えると、

「ところが阿難よ、私たちが人間に生まれることは、その亀が丸太棒の穴に頭を入れることが有るよりも難しいこと、有難いことなのだよ」と言われた、というお話です。

普段は気にもしませんが、生命誕生の神秘から私たちの生まれるのが低い確率だったことに驚きます。男性の精巣でつくられる精子の数は1日に5000万から1億、1回に3億射出されるらしい。私は昭和43年8月の生まれだから誕生日から遡ること十月十日、まずはその日の3億の中にいなければならなかった。そこからの3億分の1。姉が1人いるので、父の総数1兆分の2ほどの確率でしょうか。

同様に限りなくゼロに近い条件のもと誕生した両親がいて、両親にも祖父母がいる。それぞれの祖父母にもそれぞれ両親がいた。ドンドン遡っていき、30代と少しいくと理論上は実に数十億人、現在の世界人口と同じほどの方々がいたことになります。実際は重なっていますのでずっと少ないですが、それにしてもたくさんの方々がいたことに違いありません。

その中の誰か一人が欠けていても、時がずれても自分は存在しない。

どんなドラマがあったのだろう。

私と妻の関係をみても出会ってから単純に結ばれた訳でもなく、別の選択をしていれば出会うことさえなかった。そうなれば娘と会うこともなかった。

どんな方がいたのだろう。

多数であることから綺麗ごとでは語れないであろう。毎日ニュースで目にする犯罪者、凶悪犯、目を覆いたくなるような事件の当事者も私の命の源泉にはいたに違いない。不貞や犯罪から生まれた命もあったであろう。

どんな思いで産んでくれたのだろうか。

すべてが祝福されたのであろうか。厳しい状況もあったはず。逆境におかれ孤独の中で生まれ育てられた命を想像すると、心が震える。ここまで紡がれた命には、数えきれない人の手と思いが詰まっていることを心に刻みたい。

ケシの実に三千世界をいれて広からず狭からず

ケシの実はアンパンの上にのっている胡麻のような粒。三千世界は宇宙。ケシの実に宇宙がピッタリ入るとはどういうことでしょうか。

ケシの実があるのは実をつけた草木があったから。草木があるのは大地があったから。大地は地球があったから。地球は太陽系にあり宇宙があるから。

そしてケシの実はその実をつけた草があり、草には種が必要で、その種を生んだ草があり、悠久の時を遡る。

宇宙の営みの結果がケシの実であるなら、この実を作るために大地、陽の光、雨風、生物、すべての作用が完璧に働いたといえる。そして数ある実の中でも、雨に流されず、風に飛ばされず、土にも埋れず、他所にいくことなく眼前に現れたこのケシの実は、私にとって正に唯一無二の完璧な存在ではないか。

命は大切、尊い、といわれるが、その言葉では表しきれない深遠なものがある。そのままで過不足ない。優劣など量られる対象ではないのだ。有り難いことが有ったその命の重さを忘れずにいたい。

 

◆プロフィール
小林 照(こばやし あきら)
1968年、長野県生まれ

学生時代は社会福祉を専攻し、介護ボランティアに携わる。2005年、不動産会社起業。現在は病気を機に仕事をセーブし、死生観、生きる意義を見直し、仏教を学び中。

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