土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)
今夏パラリンピックの閉会式のコンセプトがHarmonious Cacophony(ハーモニアス カコフォニー)というものであったということと、この単語の意味がそれぞれの違いを認め個性を輝かせることで、不協和音を調和させていくことというのはコラムのお題となったことで知りました。聞いたときは直感でいい言葉だなと思いました。それはこの言葉が不協和音の理由となる不和や軋轢を肯定した言葉のように感じたからです。
思えば社会とは調和と統制が求められ、それらを必要としている場所です。これに異論は全くないのですが、感覚として調和と統制の必要性を理解していても、自分の考えが周囲と異なっていると感じたときや自分の意見を陰口でも正々堂々とでも口にしているとき、また発言はせずとも周囲とは違う自分の意志があるときに、人は実は自分が自分であることを再確認しているように思うのです。ある人が周りの意見に同意していないなと感じるときはその人の眼差しには鋭さがあり、どのような場であっても肯定でも否定でも自分の意見を述べている人には勢いがあり、また内に秘めた何かがあると匂わせる方にも心の強さを感じます。
逆にその場において何らかの意志や意見を持たない人は所在のなさを感じて不安になり、それらを持とうとして動いているように思います。新入社員の方が会社の理念を知りたいと入社のオリエンテーションに参加したいと思ったり、新しいチームに所属したときにそのチームの空気感を知りたいと思うことはとても自然であり、それは見ず知らずのところにやってきた自分自身の不安を解消するかのような行動です。しかしながら、時間の経過とともにまっさらな布に染みができていくように、すべての人がかつて自分が知りたいと思った会社の理念やチームの在り方に何らかの意見や考えを持っていきます。賛同や納得できない点を口にする方、自分の解釈と実態の違いを埋めようと動く方、自分の中での優先順位の入れ替えにより発言を控えることを選択する方、と様々なのですが自分の意志を持ったという時点でその人は目的が分からずに右往左往している人より強いといえます。
不思議な現象だなと感じます。自分がまっさらな時は調和や統制の在り方を知りたいと思うものの、指し示された調和や統制の存在を知るとよくも悪くもコメントをしたくなったり、人によってはあえて不和を招くような行動をしてしまうのです。そして更なる調和の必要性を生じさせるのです。このような現象に対して、これまではいかにこの不和を打破して調和を図るか、またはどのようにすればこのわだかまりを解いて統制が取れるかといったことにスポットライトが当たってきたように思います。
しかしながら今回耳にしたハーモニアスカコフォニーは、自生してしまう不和や軋轢にも光を当てた言葉だと思いました。不協和音に対して不協和音そのものを公に認知するよう要請したとでもいうのでしょうか。ハーモニーは尊いものではあるけれども、ハーモニーに心酔することは大方の人が実は難しいことであることと同時に、不満のある人やどうしてもその場に馴染めない人が、正々堂々と意見を言ったり自らがその場を馴染める場所に変えるということも難しかったりします。そして不満を言ってはいけない、馴染めないことはいけない、という固定観念も当人にとってはとてもつらいものです。なにが、それが、という根本的な違和感は言葉にできないけれど、何かがどうしても今かみ合わないという心の声を押しとどめておくことが更なる不協和音を生み出してしまうのです。
この不協和音が最も鳴り響きやすいのが介護の現場ではないかと思います。先日あるアテンダントが、障害特性ゆえに過度にいびつになるクライアントの言動を「納得はできないけど理解はできる」と話していました。表現としては「理解はできないけど納得できる」になることもあるかと思いますが、介護の現場にハーモニアスカコフォニーが存在するとしたらこのような心境のことではないかと思いました。これは、お互いに心を開いて理解も納得もしているというハーモニー単体の成立は難しくても、すぐ隣にある不協和音の存在価値は認められるといった気持ちの停留所のようなものでしょうか。
確かに人の和というものは、ハーモニーを神話のように掲げてきたものの現実はある程度心を閉じたり、それなりに気持ちを抑えたりして、納得いかないことや理解できないことを自分なりに受け入れることで成立しています。また、個性とは磨いて輝くようなものになることは稀で、たいがいは協調性がないとかKYだとかいうネガティブな要素として表れています。それでも、自分が自分であることを認識するために、周囲を巻き込んでも巻き込まなくても自分の意志をもつことで人は存在しているように思います。これが、ハーモニアスカコフォニーの在り方なのではと思いました。自分の考え、他人の意見、違いはあるけれども違うということを理由に排除することはないし排除されることもない、というこれからの時代にふさわしい言葉だと感じています。
◆プロフィール
吉岡 理恵(よしおか りえ)
1981年東京都生まれ。
東京都立大学経済学部卒業。
20代は法律系事務所にてOL、30代は介護・障害福祉分野で現場の実務や組織マネジメントを学ぶ。女性管理職応援中。
CLO 最高法務責任者