土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)
それから和は毎日のように暴れた。
きっかけはチャイムの音や同級生の声や不意な大きな音、救急車のサイレンのこともあった。
パニックになると近くにいる教員にまずは向かうが、周也の姿を確認すると周也に向かっていくことが多かった。自分に向かってくるということも周也の自己否定にさらに拍車を掛けた。
他の教員に比べて自分が劣っているために自分だけに向かってくるのだ、という思考になっていた。
自分は駄目だ。
いよいよ辛いな、と思った。
朝起きるのも憂鬱になってきた。
周也は仕事を辞めたいことを誰にも言えなかった。
ある日、体を起こすのが辛くて起きられず、就職して以来初めて遅刻をした。
その日の放課後、周也は学年主任の先生に呼び出された。
遅刻を叱られるのかなと身構えていたが、そうではなく、話を聞かせて欲しいと言われた。
主任は少し太っていて雰囲気がどこかテディベアのような柔らかく穏やかな男性だった。
主任ではあるが他の教員の中ではあまり目立たない存在だった。だから周也も普段からあまり言葉を交わしたことがなかった。
しかし、この時ばかりは周也は和とのこと、自分が感じている気持ち、不眠、朝の憂鬱など全てを話した。自分は駄目だ、という気持ち。仕事を辞めたい、という気持ち。そんなネガティブな状態にあることを正直に語った。少し距離がある分だけ同じクラスの教員に話すよりも気軽に話すことができた。
主任は黙って周也の話を聞いていた。
同意するように静かに頷きながら。
周也の話が終わった後で、ゆっくりと口を開いた。
「それはとてもまっとうな反応なんですよ」
穏やかに微笑み「君は正直なんです」と言った。
「私もそうですけど、君も人との闘争には慣れてないでしょう?」
「はい」と周也は答えた。
「多くの人にとって噛まれたり叩かれたりする経験は珍しいことですね。
では、これが動物同士だったらどうでしょうか。動物同士では縄張り争いや餌の取り合い、メスの奪い合いなどぶつかり合って他者と向き合わなければならない時があります。その時、動物たちが取る行動は二つしかありません。
戦うか、逃げるか、です。」
周也は黙って聞いていた。
主任は続けた。
「動物は戦うか、逃げるか、しかないんです。
人間だって動物です。ぶつかり合う場面がきたら動物の本能が戦うか逃げるかの姿勢をとらせようとするでしょう。
君の本能は脳を駆使して、君に自己否定をさせ仕事を辞めようかなという決意をさせようとした。君は本能に誘導されてるんです。つまり、脳がこの場から離れるべしという警告をしてるんですね。
仕事を辞めたい、この場から離れたいというのはごくごく自然な反応です」
「体が自分を守ろうとしてるってことですか」
「そうですよ。とても体は正直ですね。人間の脳の動物的な部分、大脳辺縁系に従えば逃げるというのは正しい選択です。だからある意味君は正解を選び取っている。
しかし、私たちは時に自分の脳を裏切らなければならないのかもしれませんね。
なぜなら私たちは人を支援するということを生業(ナリワイ)としているからです。
自分の素直な反応は認めた上で、人をケアする仕事を選んだ人間は別の選択をする必要があります。
自分を客観的に眺め、今目の前にいる人をケアする上で自分にできる最善のことは何なのか、それを考え、答えをチョイスすることが求められます」
「今の自分にできる最善のこと……目の前の、人のために……。」
「そうです。
和くんに目を向けて見ましょう。
不安は、どんな不安でしょうか?
どんな世界を生きているのでしょうか?
どう見えているのでしょう?
どう感じているのでしょう?
和くんにとって君はどんな存在なんでしょうか?
それを考えながら見ていくと、もしかして和くんがあなたに向かってくる理由も別のところにあるかもしれませんよ。
あなたが劣っているからではなく、あなたに分かってもらいたいのではないですか?
あなたに伝えたいのではないですか?
他の人ではなく「あなた」に。
他害は一つの表現方法です。
間違った表現方法かもしれませんが、今の和くんには気持ちを伝えるための数少ない、とても大事な表現方法です。
それしか『今は』ないのです
さて、和くんは何を伝えたいのでしょう?」
そう言われてみて周也は今まで自分の頭の中で思考がぐるぐるしていたこと、その中に和が登場することはあまりなかったことに気付いた。
暴れた姿や泣き顔は出てきたが、和の心というものはほとんど出てこなかった。考えたことがなかった。
考えていたのは自分のことばかりだった。
和からしてみればどのように世界が見えているのか。その中で自分はどういう存在なのか。何を思っているのか。
あいつも心を持った一人の人間だもんな………周也はそう呟いていた。
完全に自己否定が拭いされた訳ではない。怖さから自由になった訳ではなかった。
しかし、頭の中で堂々巡りしていたところに和の心を考えてみる、という小さな小さな視点が一滴落ちた。
その波紋はじわじわと広がっていった。
自分が今、憂鬱や恐怖で追い詰められているような気持ちをあの時教室で泣き声を上げ始めた和はもしかしたら同じように感じていたのかもしれない。誰にすがってよいのかも分からない状態で。
暴れたくなるくらいの感情。
噛まなければならない気持ち。
そんな気持ちに追い詰められた時、
自分ならどうされたい?
周りにいる人にどうしてもらいたい?
自分が今、和にできる最善のことはなんなのだろう?
この場を離れることなのか?
分からない。
分からない。
やっぱり分からないことだらけだった。
だけど、分からないから和のことを知りたい、と周也は思った。
もっと和のことを知りたい。
知ることからはじめてみよう。
そう思った。
それは周也の小さな一歩だった。
(^_^;)