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脱施設化に向けて その3 / 安積遊歩

先回、排泄のことを書いた。もう少し書き足りない気もする。しかし、その部分は次回に譲ることにして、今回は食のことについて書いていこう。

私の家は貧しかった。そこから見ると、最初は施設のご飯は、中々に豪華に見えた。そして兄と妹と争わずに食べられる食事は段々楽しみにもなった。ただ、食器はアルマイトだったし、配膳車の音に温かさはなかった。また母には言えたおかずへの文句はここでは一切許されないと入院の翌日には気づくことになった。

母に「おいてかないで」と頼んだけれど、それが叶わず一晩泣き明かした。だから朝ご飯の時にはお腹が空いていて、卵かけご飯をいっぱい食べた。しかしその卵には血がついていた。私は母親にいつも「血をとって」と頼んでいたので、同じように看護助手の人に言った。それが、結構おおごとの話題になった。

そこでは子どもはよっぽどのことがないと、大人にものを頼んではいけないとされていた。にもかかわらず、私はその6人部屋の最年少の新入りであるのにその常識を破ったのだ。その日の夜には、生意気でわがままな子どもが入園したという情報がスタッフの大人にも、各部屋の子どもにも瞬く間に共有された。「卵の血を取ってくださいなんて生意気でワガママなんだよ」という眼差しで見られ、言われ続けた。

おやつも十分にはないから、食事は重要な楽しみであった。ただ、夕飯が16時30分には始まり、17時15分くらいには配膳室に片付けられる。食べ盛りの子たちにとって、夕飯から次の朝までの時間はかなり苦痛だった。

ある時、看護婦の中に夕飯の残りご飯を大きい子たちに、おにぎりにしてくれた人がいた。多分食べ盛りの子を自分でも育てていた人かもしれない。消灯前に、塩おにぎりをたくさん作り、小学校高学年から高校生までの子に一人1個か2個ずつ振る舞ってくれたのだ。

「内緒だよ。」と言いながら、彼女の夜勤の晩にはみんなとても楽しみに待つようになった。私はおにぎりが好きだったが、梅干しも海苔もないおにぎりが物足りなくてすぐには手を出さなかった。ところが、彼女の後ろについてくる男の子たち2、3人を見て、「ああ、本当にお腹が空いているんだ。」と自分でも気付いた。だから手を伸ばして1個は必ずもらうようになった。

彼女の賢いおにぎり配付は、しかし長くは続かなかった。誰かがチクったのか、「残飯は捨てるように」という指示が強烈に出されたのか。消灯前の楽しみは、以前に戻って、テレビの中の食事シーンだけとなった。

おやつは大抵、ヤクルト一本と煎餅2、3枚。あるいは、豆菓子やちっちゃなカステラのようなもの等々で、親の持ち込みは禁じられていた。それでもおやつをもってくる親はもちろんいたから、それを隠して、お互いみんなのいないところでひとりぽっちで食べた。

大抵の看護婦や保育士は、子どものおやつ隠しを知っていたと思う。しかし、2人、とんでもなくキツい看護婦がいた。消灯時間のあと、「持ち物けんさー!」と叫んで子どもたちの部屋に入ってきた。そして、子どものベッドの下にあった段ボールを逆さにするよう命じてきた。

段ボールの中にはほとんどの子がチョコレートやクッキー等を忍ばせていた。それらを「規則を破ってはいけない。」と言いながら、没収した。その悲しみと悔しさは今でも忘れられない。

私はある時、没収されたお菓子の行方を突き止めるべく、密やかにナースステーションまで行ったことがある。カーテンの割れ目から見たその光景。私にとってはとても残酷でショックだった。私たちから取り上げたお菓子を、看護婦たちがお茶を飲み、談笑しながら食べていたのだった。

親からのおやつの持ち込みを禁じていた理由は、お菓子を持ってきてもらえる子ともらえない子の格差を無くすということと、お腹を壊さないようにということだと説明されていた。しかし、身体が他の子と違うというだけで家族から離されて、治療され、さまざまに管理される。なぜそんな目に遭わなければならないのか。私はどんどん嫌な思いが溜まっていった。

そんな中、ある時女の子たちだけに、美味しいおやつをくれるPT (理学療法士)がいるという噂が流れた。そのPTの夜勤のときには、女の子だけが必ず1人は呼ばれておやつをもらえるというのだ。一体、だれがどのような基準で選ばれているのか。私の耳はダンボになった。

彼におやつをもらった子の話によれば、多少触られたり変なことを聞かれたりもする。けれどもそれはほんの短い時間だけでそれと引き換えに美味しいおやつが待っているというわけだ。私は呼ばれる日を心待ちにするようになった。

そしてついに来たその日。消灯時間の前なのか後なのかは忘れてしまったがいそいそと彼が居る部屋に向かった。思った通り彼のいるテーブルの上にはふわふわの美味しいカステラで作ったような饅頭があった。

だが彼がしたことは私にとってはかなり気持ちが悪かった。「可愛いお顔だね」と言いながら私の顔をペロペロと舐めてきたのだった。危うく大声を出しそうになったがおやつを思って我慢した。おやつをもらった後彼が言ったこと。それは「このことは絶対内緒にすること」という命令だった。

美味しいおやつと気持ちの悪い行為。そして最後に下された命令。私はすっかり混乱して部屋を出た。もらうまではもし貰えたら誰かと半分こしようと考えていた。しかしそんな思いはすっかり吹き飛んでどこでどうやって食べたかは覚えていない。舐められた顔をトイレで洗ってトイレットペーパーで拭いた気もする。もしかしたらそのままそこで食べてしまったかもしれない。

当時、性虐待という言葉は全く無かった。そのPTのやりたい放題がいつまで続いたかも全く知らない。ただ「嫌な思いを我慢すれば美味しいおやつを貰えるというのは動物の調教と同じだな。私は動物園の動物なんだ。」とぼんやりと思った気がする。

私は、日本国憲法というものをその時代にはすでに知っていた。だから、基本的人権が私たちからは奪われているのだということを感じつづけた。そして、大多数の子どもたちと違う身体をもつことは、隔離と管理という罰のような待遇を受けることなのだと気付いていった。

だから、2年3ヶ月が経った頃、親からの同意を経て遂にその施設からの解放戦略を発動。まず、その施設のトップであった園長に涙とともに交渉した。13歳のときだった。その施設は、医療的なリハビリをメインにしたところだったので、そこを出るということはある意味、治療放棄という宣言でもあった。

その施設を出てから私は、整形外科的治療は、ほとんど全くと言っていいほど受けていない。施設で管理されることで生活と平和な心の有り様だけではなくて、自分の身体を自分でケアするという力を奪われそうになった。しかし、その施設から脱出するという決断によって私は、再び、自分の身体を自分の元に取り戻したのだ。

施設は自由にものをいうことを徹底的に禁じる場所である。小さな小さな世界の中で、何も問題が起こらないことが一番大事なこと、というように、子どもの躍動するエネルギーは閉じ込められ続ける。施設は人の住む場所ではない。人が生き生きと暮らすには管理と規則の締め付けは必要がない。

私の施設での様々な体験は、トラウマでもあるが、脱施設化の方向を明確に示し続けてくれている。

 

◆プロフィール
安積 遊歩(あさか ゆうほ)
1956年、福島県福島市 生まれ

骨が弱いという特徴を持って生まれた。22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。

著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。

2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。好評で再放送もされた。

 

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