娘がニュージーランドにいるので、7月28日から8月10日まで、彼女が招いてくれた。彼女も働きだしたので、チケット代もプレゼントしてくれるというので、2年半ぶりに会えることになり、ワクワクだった。ところが、手続きを始めると、私の状況では、まだ入国できないことが発覚。泣く泣く諦めて、前々から行きたかった高野山に行こうと計画を変更した。
理由は3つある。富士山に行ったときも、泰然とそして堂々とある富士山の姿に、なんだか自分を見るような気がして思わず「同志よ」と呼び掛けた。娘と、同行の数人がそれを聞いて、へぇ、というような、そしてどこか呆れるかのような眼差しを注いで来た。
しかし私はいつだって、まず最初に自分自身が感じることを否定したくはないと決めているから、富士山のように、堂々と、周りへの妥協なくある姿に深い共感を感じたのだった。それ以来、世界や人々を思い、堂々と有る山々や木々や、人々を訪ねられる限り訪ねたいと思うようになった。
ニュージーランドでは、その国の中で最長齢のカウリの木、〇〇〇を見に行った。森の中に、千年のときを経て現れたその姿に私はやはり自分と繋がるものを感じたものだった。また、キューバに行って、ゲバラ廟に行ったときにも、巨大なゲバラ像の前で涙した。彼のこの世界への思いの深さ、激しさ、その思いが自分の中のそれと共鳴して流れた涙だった。
そして今回の高野山への旅、青い芝の会に共感して、共に活動していた私としては、真言宗より、浄土真宗の親鸞の方が、身近ではあった。ただ今回は、高野山に、北海道大学の教員である友人が、高野山大学へ来ていたということもあって、空海の世界と人々への思いも知りたくなった。友人の話によれば、高野山は、山の中腹にある街であり、街全体が金剛峯寺というお寺の中にあるという。具体的には、100以上のお寺もあり、大学もあり、人口2,000人くらいでありながら、小・中・高まであるという。街全体が一種のコミューン(生活共同体)のような場所なのか、とても興味が湧いた。
私は緑・木々が自然の中でも特に好きなので、お寺が沢山あるということにも、期待が高まった。友人がいる6ヶ月の間に行けば案内もしてもらえるかもしれない。
そして何より今回行くぞという決断がついたのは、介助者の中に、歩き遍路をしていた人がいたことだった。彼に高野山に行きたいと話すと、「お、いいですね。」と即答してくれた。旅の連れが私と同じように、その場所に行きたいと思い、楽しんでくれない限り、旅は楽しめないものになってしまう。また、今回は、お寺が多いということで、車椅子を押すのに力のある人であった方が正直楽なのだった。だから高野山が、歩きお遍路の満願の場所としてあったことは、彼にとっては勿論、私にとっても、大変嬉しいことだった。
そのように、いくつかの好機が重なって、来ることができた。初めのプランでは、高野山の後に、東京や福島に行く計画も立てていた。しかし、あまりのコロナでそれら全てをキャンセルした。キャンセルしてから、高野山以外の関西周辺を回ろうかとも考えたが、下界の危険な暑さというフレーズで、私は、高野山に留まることを決意。高野山に観光で来る人々は、せいぜいが1泊2泊で終わるのだという。しかし私は、結局10日近くの日々を高野山で過ごすことになった。
最初の4日間の宿坊は本当に懐かしく、気持ちの良い時間だった。私は、普段は菜食中心で肉、魚は全く食べていない。宿坊の料理も精進料理ということで、肉、魚が全く出なかった。旅のあいだに、肉、魚、卵、牛乳等を避けた食事をするのは、なかなかにストレスが多い。ところが今回は、朝、晩、完全にヴィーガン料理だったので、その点でも、随分とリラックスできた。
またヴィーガンのメニューを用意してくれているレストランも近くにあった。そこのオーナーとも仲良くなって、毎日でも行きたいくらいだった。しかし街全体が、商売をしようという切迫感もなければ、少しでも買ってもらって儲けたいという欲が見えず、夕方4時、5時になると閉まっているお店が多かった。その上、7時になれば道路に車もほとんどなくなり、街全体が早めに眠るようで、私のリズムにピッタリだった。
だから留まると決めてから、その宿坊に延長を申し込んだ。私の母方の祖父がお寺の敷地内の家に住み、寺男をやっていた。幼い頃、母のそのお寺の門前の家にはよく行っていたので、とにかく懐かしい思いが湧いた。緑が好きで、札幌の夏の緑は勇壮で、ワイルドで、とても良いのだが、高野山の緑は福島の幼い頃の優しい緑になぜか似ていて、心がしみじみとした。
結局、宿坊の延長は、高野山の夏季大学と重なり、予約がいっぱいということで断られた。そのあとに行ったゲストハウスは食事がついていなかった。しかし私は、諦めることなく、オーナーに乾麺のそばを茹でてほしいと頼んでみた。はじめは驚かれたが、2回目には薬味のネギやワサビまでつけてくれて、なんとも快適なゲストハウスライフを3泊過ごした。高野山には奥の院という、弘法大師がまだ生きていて、食事もしているという場所がある。そのため食事を毎朝晩届ける役の人もいて、ゆいなと呼ばれているそうだ。
介助の人が、その奥の院にお参りしたいというのも目的の一つだったので、私も付き合った。その奥の院の道々には、これまでの歴史上の武将の墓がずらっと並んでいた。残念ながら、武将だから男性の名ばかりで、私にはそれが結構つらかった。
どこに行っても、女性差別や障害者差別の激しさを思い、見ることになる。私の人生はそれが日常でもあるが、高野山が良かったのは、名前のないたくさんの死者たちが、武将たちの周りに累々といるだろうことが感じられたことだった。
車椅子を使っている私にとっては、もう一つ、多目的トイレがむちゃくちゃあちこちにあったこと、道路も歩道と車道の段差は結構解消されていたこと。また声をかければ、お坊さんが多い街だから、親切な人が多いだろうと予感できたこと。
もちろん今はここに書きたくない暗の部分もいくつかあった。しかし、それらを含めていつか娘と一緒に訪れたいとしみじみ思う場所になった。
◆プロフィール
安積 遊歩(あさか ゆうほ)
1956年、福島県福島市 生まれ
骨が弱いという特徴を持って生まれた。22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。
著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。
2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。好評で再放送もされた。