若い友人の訃報に思う / 安積遊歩

同じように骨の弱い身体を持つ女友達が、先月と今月、次々と亡くなった。一人目の友人は20代、二人目の友人は30代だった。彼女達は二人とも家族とは縁遠い人たちだった。

20代の友人はほとんど親とは繋がりがなかった。そのため小さい時からずっと施設暮らし。たぶん施設以外での暮らしは病院でしかなかったろう。そのため、一人暮らしの自由を味わいたいと頑張っている中での死だった。お腹が痛いとずっと訴えていたが原因が分からず、最終的には熱が出てあっという間に亡くなったという。

二人目の友人は彼女のお父さんが私と同じ養護学校の先輩だった。お父さんも同じ身体つきで、私より3、4歳上だったろうか。彼は、養護学校を出てから、地方の高校の正門の前にあった自宅を改造してお店にしたという。高校生向けのお店を作り、お店の中や入口に簡易な椅子とテーブルを置いて、高校生達にカップヌードル、ジュース等の飲食の場を作った。

その商売が当たって、私より小さな身体でよくよく働いたのだろう。彼女が中学生か高校生の時くらいに彼は多分過労で亡くなった。彼女の母親は彼女が幼い時に家を出て行ってしまったという。そのことを私は彼女が養護学校の高等部にいた頃に知った。父を亡くし、母も幼い時に出ていかれてしまった彼女があまりに不憫で彼女に会いに行こうと連絡をとった。

最初の出会いは彼女が高校を出て一人暮らしを始めていた頃のこと。彼女には兄が一人いたが、それほど仲がよいということでもなかったようだ。母が家を出、父が亡くなってからは、彼女の面倒を見てくれたのは親戚の人らしかった。その親戚の人に支えられながら一生懸命生きる中でパートナーに出会った。

彼女は車の免許を持っていた。骨が折れやすい身体で車の免許を取るのはそんなに簡単ではない。にも関わらず、彼女は親や兄弟に相談することもできない中、自立しなければならないという思いで免許を取った。そして、何度かは私を乗せてくれたし、通勤もそれでしていたらしい。

彼女は、私と彼女の父と同じ養護学校の高等部を卒業した。そこは、学校と病院機能が一緒の施設だった。私もそこに2年半いて、その治療の残酷さに嫌になって、中学一年の2学期で出た。しかし彼女は、応援してくれる人も無い中、高等部まで居続けたのだった。

彼女にされた治療は私からすると考えられない酷さだった。つまり、足の骨をまっすぐにするということで何度も何度も手術され、最後には骨と骨がくっつかないままで放置されたというのだ。恒常的な痛みを持ちながら、ついにはそれに慣れたのか麻痺したのか。骨折状態のままの足とともに生きていた彼女。

彼女の死は全く予測していなかった突然のものだった。母親に置いていかれ、父親に過労死され、医療からは散々な目にあっていて、その上、職場も相当に忙しかったのだろう。

私たちの身体は、タンパク質の合成が人と違うために異様に骨が弱い。その弱い骨で組み立てられた身体で毎日8時間、週40時間働き続けるのは、あまりにも過酷であったろうと思う。私たちの障害の平均寿命が30代、40代と言われているが、それは自分の身体をこの社会に合わせられることによって起きている短命さなのだ。

ところで、2011年の原発爆発の後から福島県には心疾患や様々ながんが増えているのは確実だ。にも関わらず、県や政府はそれを調査をろくにしていないから認めるはずもない。私から見れば、完全な棄民化政策が続いている。いまも福島県は「原子力緊急事態宣言」下なのに、各地の原発再稼働や、あろうことか新原発増設などと言い始めている。

放射能は目に見えず、身体の中のいろんな所に取りついて、その細胞の力を弱らせる。彼女の死に私は必ず放射能が関係していると思っている。家庭的に辛いことがいくつもいくつも重なったあとに頑張って仕事を見つけて働いていた彼女を、放射能事故後、私は訪ねた。

「できれば、福島県から脱出し、少しでも放射能から離れてほしいのだが」と言ってみた。しかし彼女は一人暮らしの場所を変え、さらに原発被災地の近くに越すことを決めていた。彼女にとっては放射能への恐怖より実家の近くでの一人暮らしの方が大事なことだったわけで、私が「東京に行こうよ」と誘っても、それは考えられないというのだった。

2014年初春、私もニュージーランドへの避難から、ビザの継続が難しくなり帰国した。その数年後、彼女を誘って山梨の民宿で彼女と私と同じ身体つきの若い女性たちと5人で語らいの場をもった。

今回、彼女の訃報を伝えてくれたのは、そこで私がつないだ若い人たちだった。山梨での語らいの後には、私自身は彼女らとは残念ながら会うことはなかった。しかし彼女らは同年代ということもあって、SNS等で関係を深め続けていたという。彼女のパートナーから連絡をもらった彼女たちが私に連絡をくれたことは、この辛いニュースの中でも一点の喜びとなった。

人と人との関係を繋ぐという行動は、一人ひとりの生きること、そして死さえも豊かにしてくれるものなのだと再々確認した別れとなった。彼女の魂が安らかに眠ることを心から祈念する。

 

◆プロフィール
安積 遊歩(あさか ゆうほ)
1956年、福島県福島市 生まれ

骨が弱いという特徴を持って生まれた。22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。

著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。

2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。好評で再放送もされた。

 

関連記事

TOP