脱施設化へ向けて Y子さんの自立 Part2 / 安積遊歩

Y子さんは中学校まで地域の学校に通った。その後は、養護学校の高等部に籍を置きながら、訪問教育を受けることになった。それと同時にY子さんの自立生活に近い、ケアホームでの生活が始まった。

私の友人、Y子さんの母は、「Y子さんとの15歳までの日々は、正直本当に大変だったし、辛かった。」と繰り返し話してくれた。だから、ヘルパーを使い始めたのだが、その頃は全部自費だった。訪問看護ステーションのケアの制度もなかったので、医療的ケアは全て家族が担わなければならないとされていた。

社会福祉協議会からの派遣を受けていたこともあった。社会福祉協議会はその頃、公平性を保つため、ということで、3ヶ月ごとにヘルパーが変わっていた。(多分、他の事業所もそうだったかもしれない。)ヘルパーの中には、Y子さんの医療的ケアを頼むと、個人的にやってくれる人もいた。その一方で、驚いて上司に相談する人もいた。するとその上司から、すぐに連絡があって、「やってはいけないことを依頼されたら、派遣できなくなる。」と言われることもあった。

そのようにヘルパーさんや事業所との関係性を築いていった。しかし、介助の担い手は、Y子さんの母があくまでも中心だった。だから、「もうできない。」という、体も心も限界に達する頃、ある出会いがあった。

自分自身も障害当事者で、施設体験のある事業所経営者からの提案があった。彼は、「もし僕がケアホームをつくって、そこにY子さんが入るということなら、建設を考えるよ。」と言ったのだった。そこから様々なやりとりののち、Y子さんは彼の建設したケアホームに入居した。高校入学の時と同時だった。そこは、Y子さんのためにつくられたと言っていいくらいの、バリアフリーな建築だった。

今回、コロナ禍の中で、そのホームを出るという決断は、ヘルパーさんたちに非常に驚かれることになった。しかし、そのホームの代表、経営者にY子さんの両親は丁寧に話し、彼はそれを理解したのである。

彼も若い時から施設に入所し、その体験を踏まえてY子さんにとっての暮らしやすいホームをつくってはきた。両親が出る理由を話す中で、彼は「やはりホームも施設なんだよなあ。」と言ってくれたのである。そこには、自分の体験からの学びという深い思いを感じた。

施設というところは、管理が優先するから、たとえ親であってもコロナ禍という非常事態では、会うことが自由にできない。この、自由がないということこそが管理隔離された施設の大問題なのだ。

そのホームで暮らしている時からY子さんは重度訪問介護を使っていた。最初は24時間365日分は出ていなかった。しかし、3、4年ほど前から、Y子さんの父親が市議会に訴え、24時間365日ケアに近いものにどんどん変わっていった。時間数が増えたことはY子さんの自立生活を具体化するために大きな力となった。

いまは、790時間、Y子さんの体の状況を踏まえ、2人体制の時間も支給された。自分の娘に会いたい時に自由に会えるよう、Y子さんの両親は、彼女の自立を完全に応援し、それを実現したのである。

端的に言えば、重い障害を持つ人の自立生活は介助が充分に付きさえすれば誰にでもできるということでもある。しかし、Y子さんのお母さんは、「まず親が子どもを手放せるかどうかが自立生活においては、もっとも重要なポイント。」と話している。

つまり、障害のある子を社会に託せるかどうかが子どもの自立の分岐点になるというのだ。親が子どもを手放し、手放された子どもが自分で充分に生きていかれる環境を作り出すこと。そして、周りの人々もその制度をさらに良いものにすべく、行動し続けること。

Y子さんのお母さんは20年前だったらこのような生活は全く想像できなかったという。16歳で福祉ホームへ出たときでさえ、Y子さんのお母さんは、「表現を理解できるのは私だけだから、親元から離すのは、彼女の命と自分の人生を引き換えるくらいの大きな決断だった。」という。しかし現実には、親元を離れてから5年間は、それまでの人生にはなかった入院なし生活となったのだ。

Y子さんの場合、Y子さんからの表現を理解するのは、実に難しい。言葉は全くないし、表情もよく見ていてさえ、わかりにくい。涙も笑いも、わたしたちがわかるような形では表現されない。だから、Y子さんの母が、「彼女の体の緊張を緩め、絶えざるスキンシップを通じて、彼女の介助をしてきた。それなしにしか、この子は生きられないのだ。」と思い込んだのは、無理もない。

しかし現実には、親元を離れたからこそ、彼女は36歳の今を生きているわけだ。人間の命にとって最も重要なのは自由への意志と尊厳を大切にされること。それを尊重されることなのだと言うことをY子さんは体現している。

重い障害をもつ子どもを手放せない親たちは、自分より一日でも早くその子に死んで欲しいと願う。わたしは、私に向けてそれを言ってきた親たちの顔が苦渋に満ちていたことを知っている。だから、その苦しさのあまり、その子を人里離れた施設に隔離してしまう。一旦隔離してしまうとその子どもに、きちんと会いに行き、親子の情を交わし合うのは至難の技だ。

大抵、隔離した我が子を忘れようと努力し、中には家族に「あの子は死んでしまったのだ。」と告げる親さえいる。そんな中、Y子さんの親は、壮絶な戦いを個人の自由と尊厳の実現のために成し遂げてきた。彼らを親のモデルとし、重い障害を持つ子の自由と尊厳を実現する親たちの群れの創出が望まれる。

最後にY子さんより若い、H子さんの自立をベストを尽くして応援し実現した、またべつの友人の本を参考にあげておきたい。『ビバ!インクリュージョン』柴田靖子著 現代書館出版。

H子さんの母も私の良き友人である。彼女の言葉は私の中で、自由と解放への指標として光を放ち続けている。彼女は、「この制度があったから、私は初めて、介助者ではなく、母親になれたのだと思っている。こうした制度をつくり続けてくれた先人たち。その1人でもある遊歩にもたくさん感謝しているよ。」と言ってくれたのだった。

 

◆プロフィール
安積 遊歩(あさか ゆうほ)
1956年、福島県福島市 生まれ

骨が弱いという特徴を持って生まれた。22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。

著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。

2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。好評で再放送もされた。

 

関連記事

TOP