介助という仕事 / 安積遊歩

私は介助という仕事を20代を中心とした若い人にいつも勧めたいと考え行動してきた。私が22歳の時、親元から自立して関わった人たちははじめはボランティアだった。介助料制度は全くなかった時代。つまり、彼らの意思だけが車椅子の押し手になってくれるかどうかの拠り所だった。

私が車椅子を使うようになった1980年代前後は、車椅子の人が町に出るということだけでも社会にとってはとんでもないほどの衝撃だったらしい。もちろん私にとっても、障害を持っている人間は引っ込んでいろという社会のあり方に抗って外に出ることは、毎日毎日大きなチャレンジだった。黙っていたらバスにも電車にも全く乗れなかった。一日最低でも10回以上は「助けてください、手を貸してください」と通行人に呼びかけ続けた。声を上げれば人々は寄ってきてくれ、車椅子の前後に3人〜4人の人の手を借りて階段を上り下りした。その時の私は手を貸してもらいながら、彼らが私や私の仲間たちにもっともっと興味を示してほしいと切望した。そして、日常に関わってくれればいいのにと常に思っていた。

階段で人の助けを得るのは容易だったが、ご飯を自分で食べれず言語障害もある人が食べさせてくれる人を探すには、工夫と場所が必要だった。私のそうした友人達は、お昼はしょっちゅう大学の学食に行っていた。町のレストランのテーブルに辿り着くまでには様々にバリアがあった。入店拒否も言語障害が無い私でさえ何度か体験している。それに比べて大学の学食はオープンスペースだ。私の友人の一人は重い言語障害があったのでトーキングエイド(おしゃべりする機械)を車に乗せて、それを頭に被ったヘルメットの先に付けた棒で一音一音押しておしゃべりをした。手も動かなかったからご飯を食べさせてほしいと、一人か二人で座っている学生の側に行ってその機械で話しかけたのである。当時の大学には学生たちが社会のあり方に変革を求めて動こうとした学生運動の残り香がまだあった。全ての大学ではなかったが、入り口や構内には社会の不正に対して抗議する立て看やチラシがたくさんあった。そんな中、ヘルメットの先に付いた棒で話をするおじさんに話しかけられた学生たちは、どんな気持ちだっただろう。

まず、障害を持つという人の現実を全く知らないわけだから、最初はかなり戸惑ったに違いない。それでも、その戸惑いを超えて手を貸していくうち、彼の人間性を感じてくれただろう。大口を開けて食事をし、助かったよという食欲と笑顔に安心もしただろう。

駅の階段での介助とは違って、食事の手伝いは数十分の時を要した。今私の大事な友人の一人にその時食事介助を手伝って障害を持つ人に関わり始め、自分の人生を大きく変えた人がいる。彼はそのトーキングエイドを使っていた男性がどのように生きているのかを知ろうと家を訪ねていったという。そして彼のあまりにサバイバルな状況に驚き、しょっちゅう彼の元を訪ねるようになった。そんな中私とも知り合い、私の家にも来てくれるようになった。その後彼は様々な体験を重ねて、最終的に今は大学の教員をしている。その間、知的障害を持つ人と共に暮らし農業をしていた時期もあったし、看護師の資格も取った。彼が大学生だった頃と今の大学生の違いは何なのだろうとよく考える。まず、若い人が他人の人生に関わるのが難しく見える。特に自分とは違った差別や不正、困難に苦しむ人たちに出会わずに済む社会の仕掛けが多くなった。1979年、養護学校義務化という法律が国会を通った。六千人の障害を持った子どもたちが地域の学校から養護学校(今は特別支援学校)へと排除、隔離されたのである。戦後の重い障害を持つ人への福祉政策の一番の柱は、施設収容というものだった。介護が家族にのみ任されていたために、その辛さにしょっちゅう無理心中が起きた。その悲惨を軽減するということで障害を持つ人は施設に隔離、収容されたのである。ところが、施設の中では障害を持つ人の自由や権利は全く保障されていなかった。多くの施設が毎日毎日の生活に厳しいルールを強いた。施設はまるで刑務所のようだった。健常者社会の平穏と安心を維持するために施設は作られていったのである。1979年、川崎で重い障害を持つ人たちによって「私たちもバスに乗りたい、バスに乗せろ」という運動があった。ただバスに乗りたいという自由を勝ち取るために運動をしなければならないという状況を応援してくれた若い人たちが、その時もいた。残念ながらそれらの若い人の数は多くはなかったけれど。それでも自由と権利がほしいという私たちに共感して、無償で動いてくれた若い人がいた時代だった。そんな中、重い障害を持つ人たちは、施設から出て、地域で生きる自由を求めて、介助料制度を作ってきた。今こそこの制度を使って私は全ての人が良い人生と生活を作れるのだと確信している。だから若い人、特に学生には、自分が今どんな時代に住んでいるかをよくよく見てほしい。学生になって、奨学金に苦しみながら生活してはいないだろうか。その苦しみをコンビニや居酒屋のバイトで解消するというだけではなく、この介助の仕事にぜひ赴いてほしいと思うのだ。世界のほとんどの国は軍事費をトップの予算としている。これほど多くの戦争を体験し、平和の重要性を学んできたにも関わらず、だ。殺し合うためのお金ではなく、人と助け合い、共に平和と幸せを求めるための経済システムを、さらに考え構築していってほしいのだ。そしてそれを学ぶ鍵としての介助という仕事に多くの人に赴いてほしい。

 

◆プロフィール

安積 遊歩(あさか ゆうほ)
1956年、福島県福島市 生まれ

骨が弱いという特徴を持って生まれた。22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。

著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。

2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。好評で再放送もされた。

 

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