『ユーカリ教室午後の授業』 / わたしの

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

「他人を攻撃するのと、自分を攻めるのではどちらが辛いと思いますか?」

と、先生は言った。

大きなユーカリの木の下で、地べたに座って子どもたちは丸く目を見開いて先生の話を聞いていた。

そよ風が吹いて、あたりはユーカリの木の匂いでいっぱいになる。

外側に気持ちを向けることと、自分の内側に向けること。

「あなただったら、どっちが辛いでしょうか?」

「どうでしょう」子どもたちは首をかしげます。

例えば大きな失敗をした時、自分はだめだなーと責めるのはとてもつらいです。

それだったら誰かのせいにしておいた方がよっぽど楽かもしれません。

不安でもいいでしょう。何かしらのただならぬ不安を抱えたとき、目の前に迫るぼんやりとした巨大な何かに恐れおののいているとき。
あるいは矛盾に直面したときでもいいでしょう。
葛藤を抱えているときでもいい。
過度な疲労に襲われたときでもいい。

その、苦しい状況にあるとき、不安を直視して受け止めることと、他者に気を向けて紛らわせること、どっちが楽になるのでしょうか。

「誰かに向けていた方がきっと楽です」

と、ひとりの子どもが答えました。

みんな、うんうん、とうなずいていました。

当然、他者に気を向けて紛らわせたところで不安は根本から消えはしません。
だからずっと、ずっと、自分の不安に目が行かないように誰かを攻撃し、罵り、絡んで、破壊しなければなりません。

気持ちを内側に向けないために、常に外側に外側に向けておくために。その方法が「怒り」や「攻撃」や「破壊」なのでしょう。

誰かから責めなじられている人。
怒りの訴えを受けとめなければいけないところに立たされている人。

心配ない。

大丈夫。

大丈夫、大丈夫。

もし「あなたのせいで私はこんなに怒っているのだ。こんなに心が乱れているのだ」と誰かから言われることがあったとしたら、本当にそれはどうかと疑ってみてください。

もしかしたら順番が違うのかもしれません。

「心が乱れている」状態が先にあり、それから逃れるために「怒り」という方法をとる。
そこでその怒りの辻褄を合わせなければならず、怒りの原因を探さなければならない。そこであなたを見つけ、あなたの何かしらの行為を見つけ、「あなたのせい」にしている。

「あなた(の言動)」→「怒り」→「心の乱れ」

ではなく、

「心の乱れ」→「怒り」→「あなた(の言動)」

という順番です。

そう考えることもできるのです。

いえ、多くの場合そんなものなのです。

「本当は誰でもいいのですよ」

と、先生は穏やかな口調で言った。

何でもいいのです。

あなたでなくてもいい。
怒りを向ける矛先は何でもいい。

内閣総理大臣でもいい。
区長でもいい。
上司でもいい。
近所の人でもいい。
親でもいい。
配偶者でもいい。
子どもでもいい。

何でもいいなら、誰でもいいなら………できれば親しい人ではなくて、遠い人がいいと思いますよね。

その方がよっぽど健全だと思いませんか?

内閣総理大臣に怒りをぶつけているなら健全です。

その方が人生が壊れなくて済みます。

近しい人の心が壊れなくて済みます。

その人が「怒り」という方法をこれからも用いて生きていくならば、近くではなくてそれをできるだけ遠くに投げてもらいたい。小さいものではなくて、なるべく大きなものを目掛けて投げてほしいと祈るばかりです。

「怒り」の結果がプラスになるとさらに理想的。

「怒り」によって社会が変わる。

「怒り」によって大金が転がり込む。

内閣総理大臣に向けられた「怒り」で社会が変わることだってありますし、「怒り」の様子を配信して人気ユーチューバーになればそれが仕事になります。
「怒り」が多くの芸術のモチベーションになっていることは自明の理でしょう。

しかしながら、残念なことに多くの「怒り」は近くの、親しい者に向けられます。

「どうしてだと思いますか?」

と、先生は子どもたちに問い掛けました。

「誰でもいいはずなのに、どうして目の前の親しい人なのでしょうか?」

「どうしてだろう?」

「それはね、頼っているからです。怒りながら心のどこかですがっているからなのですよ」

「すがっている?」

「そうです。助けを求めているのです」

先程も言いましたとおり、最初に心の乱れがあります。
不安があります。恐怖があります。
矛盾が、葛藤があります。
その心の乱れや揺れをどうにかしたいと思っています。

助けてほしいと思っています。

近くの頼れる人を探します。

心を開ける人を探します。

総理大臣や国連の議長などの遠くの人では実感がありません。

顔だけは知っていて言葉も何回か交わしたことがあるくらいの少し距離のある人では信頼ができません。

実感を伴い、信頼もできて心も開けて自分をさらけ出せる人を探したら必然的に近くの人間になるでしょう。

身近なあなたを信頼できるからこそ、心を開けるからこそ訴えてくるのです。

助けてほしい。

それを、伝えたい。

ところが、その伝えるための方法がどうして「怒り」という方法になってしまうのでしょうか。

「どうしてでしょうかねー?」

先生は困ったように微笑みました。

どうして「怒り」という表現手段しか選べないのでしょうか?

それがあたかも共通言語かのように、当たり前のコミュニケーション手段だとばかりに。

そういう世界をその人は生きてきたのかもしれませんね。

生き延びてきたのかもしれません。

子どものころから。

「みなさんと同じ、子どものころから………」

先生はひとりひとりの顔をしっかりと見回して言った。

「怒り」が白いご飯くらい日常的にありふれている、そんな世界を生きてきたんでしょうね。

その世界は厳しい世界だったでしょう。

きっとつらい世界だったのではないかと想像できます。

「怒り」が共通言語の世界。

「怒り」がもっとも身近な、慣れ親しんだ感情の世界。

「怒り」が一番落ち着くと感じられる世界。

「その世界、みなさんは想像できますか?」

 

 

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