土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)
私は他県の体育大学を卒業後、地元宮﨑で教員を目指すために帰ってきました。初めは帰ってきてすぐ仕事が見つかると思っていましたが、なかなか常勤講師で採用してくれる学校がなく、アルバイトをしながら学校側から連絡があるのを待っていました。
そんなある日、先輩から電話があり、先輩が働いている知的障害の特別支援学校(昔:養護学校)の常勤の先生が年度途中で辞めるので、代わりに常勤講師で働いてみないかという連絡でした。
私は体育教師を目指し、中学校や高校で働きたいと思っていたので、特別支援学校と聞き働くか悩みましたが、一人暮らしの生活費などもあったので常勤講師で採用してもらうことにしました。
夏休み明けの2学期から採用してもらい、教員生活をスタートしました。教育実習である程度、学校の仕組みや生徒対応など勉強していたつもりでしたが、入ってみると通常の学校の知識などほぼ通用せず、自分が想像していた以上の世界がそこには広がっていました。
授業中、外に走っていく生徒や発作が起きる生徒、異食や自傷・他傷など様々な障害のある生徒が学校に通っていました。私はそんな学校で生徒に対して授業をやっていけるのか不安で仕方がありませんでした。
しかし、自分のクラスや体育の授業で生徒と接する時間が増えるにつれて、生徒によって色々な理由や条件で様々な行動をしたり発作が起きることが分かってくると、事前にその対処法が分かると授業がスムーズに行えたり生徒との関係性が良くなってきました。そうなると、自分の中で特別支援学校も「おもしろい」「続けていこう」「この道でやっていこう」と思えるようになりました。
月日は流れ、今から4年前、私は肢体不自由の特別支援学校に転任しました。そこには生徒の約9割が車椅子で日常を過ごし、授業を受けている生徒たちがいました。知的の学校とは違い、自分で車椅子を自走できる生徒はあまりおらず、教師が車椅子を押し移動したり、なかには呼吸器を積んで電動車椅子を操作している生徒もいました。
私は車椅子でどのように授業をするのか疑問でしたが、授業に入ってビックリしました。体育の授業で体操の音楽をかけると表情をにこやかにして手足を動かす生徒、手足を動かせない生徒は教師が手足をゆっくり動かすと嬉しそうな声をあげて楽しそうにしていたのです。その状況を見て、私は身体の自由に制限があっても心や表情、自分のできる精一杯の表現方法があるんだと思いました。
ある日、卒業を控えた生徒の保護者と話していたとき、私が「学校を卒業したらどうするんですか」と聞くと、保護者の方は「私が家で見るしかないのよね…でも自分の時間が無くなるんだよね…」と仰り、理由を聞くと、人口呼吸器や痰の吸引、胃ろうがあると日中預かってくれるところが無かったり、受け入れる事業所があっても定員がいっぱいで入れないと説明してくださいました。
私は卒業後にそんな問題があるとも知らず、自分の中でずっとモヤモヤした状態と何かないのだろうかと考えていました。そんなとき、何気なく携帯で色々と検索しているとき求人情報に重度訪問介護というワードが目に飛び込んできて、なんだろうと疑問に思い調べてみると、重度障害の方が自宅で24時間ヘルパーの支援を受けながら自分の住み慣れた場所で生活できるというものでした。
この制度を利用すれば高校卒業した方も利用でき、保護者の方も自分の仕事や時間ができるのではと思い、「これだ!」と思い教師の道から介護の道を歩き始めました。
渡木隆信(わたき たかのぶ)
ホームケア土屋 宮崎