何もしない夜の私を観るという旅 / 牧之瀬雄亮

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

あまり付き合いのない方と話しているとき、大概において、バックパッカー、旅好き的な印象を持たれることが多い私ですが、その実、概ね家にいて、足がしびれるまでじっとしています。

酒飲み界の偉人であり、起きていれば歌手でもある・高田渡という人がいます。彼の『石』というかっこよすぎるタイトルのアルバムの最後のしめくくりに、『火吹竹』という曲があります。
「夜中何にもしないのにただ起きている。」という内容の歌です。二番で火吹竹を作って吹いています。

自分の人生の中で、そういう「何もしない時間」がとても味わい深く、豊かだと思っています。
死ぬとききっと、いかに自分のそれまでの人生に納得がいったかが、私の人生の自己評価に関わるだろうと何となく思うし、その何となくが一向に私の精神の中から去らない。何にもしないと言いながら、ロボットのスイッチが切れたように止まっているかというと、厳密にはそうではないのです。
高田渡が(元になった詩は彼の父作。)、照れ隠しに『なんにもしていない』という夜は、現代巷で大声で云うところの“生産的な行為“を「何もしていない」ということに過ぎないでしょう。

しかも「生産」していないかと言えば呼吸によって二酸化炭素を生んでいるのは異論がないでしょう。体温を作ったり、さらに生命活動により循環を生み出し、ホルモンを作ったり、先だって食べたものを分解やら吸収やらして腸内細菌やミトコンドリアに栄養がいったりいかなかったりしているわけで、自己完結さえしていません。ただいるだけで生産および寄与しているんですなあ。

世間知で云う「何もしていない」とき、皆さんはどうなさっておられますか?私のコラムが双方向に機能するものであればと思うことがよくあります。

とりあえず私の「何もしていないとき」をお伝えしますと、頭の中にある赤や紫の不定形のイメージが、時にはざらつき時には曲がりなどして、くねくねふわふわとうごめき始めます。
それをほったらかしにして彼ら(彼女ら?)の勝手に任せているうちに「ああそうだ、耳鳴り(私には物心ついたころから耳鳴りがあり、このところ益々気に入って聴いています)」と耳鳴りに気付きその響きの形をイメージします。氷のようであったり、レース状の円錐が回っていたりします。
そういうモチーフめいた中小物がスッと形や角度を変えた拍子に、その陰から昔の思い出がよみがえることがあります。「あの時は恥ずかしかった」誰も見ていないのに顔をくしゃっとやります。
実家で飼っていた、今は思い出の中だけにいる猫の体温や、私の横をすり抜けるときの毛の当たり方を、猫ごとに思い出すことがあります。爪、ささくれに染みる猫の唾液…

死んだ父の横顔、別に仲が良かったわけでない友達の佇まい、隣で飲んだことがある人の歯並び、テーブルに乗せた手の重なり具合、夏、ガソリンが切れそうな原付に乗って感じた目的地までの距離感。あの時の焦りは別にガソリンの残量にたいする心配ではなかったんだな。違った。急に腑に落ちる。

「色々な」、と言ってしまえば、言葉で片付けて終わってしまうということが、この世で最も下らないのではないかと感じています。

病で痛みの靄が体中に満ちる中、一言「そうじゃねえよ」ということになった人の気持ちを、受け入れる仕事って、いいなあ。痛いと、怒りますね。人は。そりゃそうだ。

私が中学生ぐらいの頃だったと思うけれど、イギリスの、母親が作った帽子をかぶって、始終ずっと踊りながら歌うJay-Kayという人がやってるJamiroquaiというバンドがいて、そのアルバムのタイトルが『traveling without moving(動かずに旅する)』だった。あんなに踊りながらステージ狭しと動き回る人の言葉とは思えない諧謔に、膝を打ったことをよく覚えている。今でも打つ。

NASA(アメリカの宇宙関係の団体)が言うには、地球は太陽を中心とした惑星たちをずらずら連れ立って超高速で宇宙をぐるんぐるん回りながらどっかへ動いているという。最近は私は「実感わかねえなあ」と思わずには居れないのだが、とにもかくにもそれがあろうがなかろうが、時間旅行などしているとも言えるわけで、卒業間近の大学生よろしく旅行に行く計画を立てる前から、我々人類は壮大な旅行中の身であるわけで、ジャミロクワイ殿の言いは的を射ているともいえるし、救いでもあるなと感じ入った次第です。

高田渡もその父も、すでにその境地にあったのだろう。と思います。

重度訪問で夜、主の寝息を支える呼吸器の音を聞きながらよそのお宅で、特に用事を呼ばれることもないけれど、何となく仮眠をとるでもなくただ起きているということがあります。
まだクライアントの方の体位交換や、吸引の好みや勘所がつかめないうちや、退院後など、久しぶりにお会いしたときなどは、不必要にこわばることは避けながらも、やや緊張しながら夜起きているものですが、何となく互いに平板な夜のひと時というのはあるものです。

そのときその部屋の中に、ぽっかりと宇宙のような空間が現れたようになって、ベッドに横たわる人と、付き添う自分を、根源的な優しさで包んでいて、今ここで眠っている人に、これから最大限の幸のあらんことをと願ったこともあったなと、今「何もしない夜」を過ごしていて、そう思うのです。

今夜も呼吸器のシリコンパッドが、使う人の肌を傷めず柔らかく、過不足なく、彼・彼女の呼吸を穏やかにつなげてくれますように。

 

◆プロフィール
牧之瀬 雄亮(まきのせ ゆうすけ)
1981年、鹿児島生まれ

宇都宮大学八年満期中退 20+?歳まで生きた猫又と、風を呼ぶと言って不思議な声を上げていた祖母に薫陶を受け育つ 綺麗寂、幽玄、自然農、主客合一、活元という感覚に惹かれる。思考漫歩家 福祉は人間の本来的行為であり、「しない」ことは矛盾であると考えている。

 

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