争えない体を持つこと〜その自覚〜 / 安積遊歩

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

先日ニュージーランドにいる娘に興味深い話をきいた。彼女はニュージーランドで働いている。その仕事は2007年に国連で提起された障害者の権利条約を、ニュージーランド政府がどれくらいきちんと履行しているかを調査・研究するというものだ。障害を持つ人の歴史やシステムの数々、環境整備や家族形成など多岐にわたって非常に面白い。私たちは2人とも当事者だから毎日話していても話足りるということは全くない。

その時の彼女の話は人間が助け合うという方法で社会を作り始めた起源についてであった。それは大腿骨の骨折の治りあとから見て推論できるというのだ。私と娘は身体中の骨が弱いが特に大腿骨が弱い。私は約20回、彼女は15回以上は骨折している。大腿骨は成長骨とも言われ、 骨折の中でも折れてしまうと非常に痛い。その上治るまでには時間がかかる。そのプロセスに周りの人たちが助けの手を差し伸べるという日々があった。そこで愛情や思いやりの心が生まれ育ち、その中に社会ができてきたというのだ。

つまり社会の起源にあるのは殺し合うのではなく助け合うという関わり合いであり、優生思想では全くない。にも関わらず医療もジェンダーも暴力的な競争主義に乗っ取られてしまっている。

そこで私は、「争えない体」という言葉を気に入って使い始めた。自分で文章を書く時や話をする時はいかにもネガティブな「障害」ではなく、争えない体という表現を使うことにした。争えない体は、争えないために競争原理に巻き込まれることが非常に少ない。それどころか上記にみてきたように、骨折をしている人の周りに生まれるのは争いではなく助け合いというハーモニーだ。

宇宙が産まれてから、私はずっと家族以外の友人を1人から3人交えたシェアハウスで暮らすようにしてきた。シェアハウスには日々の暮らしがあるだけで、競い合い争い合うことがひとつもなかった。子どもは大抵社会のルールに合わせられる人となるために、自分の好みや選択を主張するとそれなりに傷つけられもする。しかし娘は自分のペースのままでいいと、大人の躾から全く自由に育てられた。

特に子どもにかけられる言葉の中で最も多いだろう、泣いちゃダメ、泣く子は悪い子、と言った否定は全くなかった。それどころか、泣いていいよ、と言われその表現のさまざまを完全に肯定する眼差しの中にいた。争えない身体でそういう眼差しの中にいたから、その結果とても穏やかで平和的な人になった。

ただ平和的な娘であっても何度も骨折という痛みをくぐり抜けてきたから、その痛みと取り組む中で本当によく泣いた。私たちの身体は痛みを感じることができる。痛みを感じることを否定するのでなく痛みを痛みとして向き合うことが肝要だ。つまり我慢しないで泣き切ることができれば痛みは役目を終え自然に大抵引いていく。

痛みが教えてくれるもの、その一番目は自分の体に注目しなさいという警告だ。二番目に痛みを感じている部位になにか異変が起きているよということ。その異変は炎症であり骨折であり腫瘍など、注目から手当ても必要としていると伝えてくれているのだ。その痛みからの解放を求めて手当てが生まれた。手当てという字はまさに手を当てると書く。互いに助け合うことのシンプルな方法が、痛んでいる人の部位にそっと手を当てるというところから始まるのだ。

娘は15回骨折しているが、一度もギブスを巻いたことはない。その理由の一番目は、私がギブスを使って拘束されたことの不快感、不自由感を徹底的に知っているからだ。骨折直後は動かさない方が痛くないと本人が十分知っている。にも関わらず愚かな大人社会には、赤ん坊や子どもだから外から拘束してあげないと動かしてしまうだろうという思い込みがある。

しかし私はそれがなんとも馬鹿馬鹿しい思い込みでしかないということを自分の体験を通して学んだ。だから娘が15回骨折してもなお1度も強制的にギブスをしたことはない。争えない体が持っている自己治癒力の凄さを私は十分知っているのだ。私の幼い日々には痛みにプラスして何度も何度も拘束のためのギブスを巻かれた。これは何十度嘆きその治療は間違っていたと糾弾しても取り返せないほどのトラウマである。

私は介助制度というシステムをこうしたトラウマからの自由解放を目的としても使ってきた。つまり娘が骨折した時に娘の体を拘束するギブスを巻くのではなく、娘の痛さを軽減するための手当てをしたり娘がそこにとどまれるよう泣き声に耳を傾けたりする人々を得たのだった。

人間の幸福はあくまでも自然との関わりの中に、その多くが依拠している。大自然の山に登ったり海を見たり、子どもであれば草花に戯れたり。ところが大都会にあるのは大自然の中の自然ではなく、同じ動物である人間が唯一自然であるとさえいえる。その唯一に近い人間同士の触れ合い、コミュニケーションが幸せの有り様を決めているわけだ。

そこに平安とは真逆の競争、争いを持ち込めば人間のみならず他の動物を巻き込んでの不幸、環境破壊が激しくなっていくばかり。自然の中の動植物のようにただただ命へのシンプルな敬意尊重を持って助け合うこと。そのために人間の知性を使っていくことが介助の現場、つまり争えない体からさらに模索していくことができるのだ。

 

◆プロフィール
安積 遊歩(あさか ゆうほ)
1956年、福島県福島市 生まれ

骨が弱いという特徴を持って生まれた。22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。

著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。

2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。好評で再放送もされた。

 

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