土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)
母かつゑは、大正9年(1920年)7月30日仙台市北三番丁百番地で生を受けた。7人兄妹の長女である。長女らしくしっかり者、田中書店の「看板娘」として父に見染められるほどの、そこそこ見栄えのする娘だった。
私にとっては誇らしい母だった。初めて授かった男子だから、特に可愛がられた。私のほうからすれば、甘やかされたという感じ。途中入園の幼稚園に行くのがいやで、毎朝、母の前掛けにすがって泣いていた私。典型的な甘えっ子である。母には叱られた覚えがない、勉強しなさいと言われたこともない。
その一方で、父に対しては強く出る。医者を辞めさせて、仙台に連れ戻したのも母である。晩酌で「もう1本」という父に「だめです」というのも母の強さであった。父と口喧嘩になっても、勝つのはいつも母のほう。子ども3人が母方につくのだから、勝つのは当然ともいえる。
我が家が「いつもニコニコ笑って平和」でいられたのは、母のおかげである。三人の子どもをそこそこ以上に立派に育て上げたのも母の功績である。平凡を絵に描いたような母だったが、意外と平凡さの中の非凡というべき才能だったのかもしれない。
いつだったかは忘れたが、母が何気なく私にこう言った。「色白で鼻が高い美男子なんて良くないよ」。そう聞いて、「そうか、美男子はかわいそうなんだ」と納得した幼い私。おかげで、自分の顔に劣等感を抱かないまま大人になった。
「史郎は人に好かれるよ」という言葉も覚えている。これは私に暗示的効果をもたらした魔法のコトバである。自分はこの人に好かれていると信じて接すると、その人の方でも私に好意を持ってくれる。それは誰にでも当てはまる。結果として、私は誰からも好かれる人間になった(のかもしれない)。母のほうでは、無意識に言ったことなのだろうが、私にとっては「愉快な人生」を送るための大事な言葉となった。
病気のせいでもあったろう。晩年の父は精神的にも弱くなっていた。仕事が回ってこない、職場で孤立しているといって「登庁拒否」状態だった。母はなだめすかし、叱咤激励して父を職場に向かわせた。悩みを聞いてやり、不満の受け皿となる。子どもをあやす母親の心境だった。まさに母の面目躍如である。
父の病状が悪化し、入退院を繰り返すようになってからは、母は父の世話で一杯一杯であった。誠心誠意といったほうがいい。父の最後は自宅で看取った。母とすれば最後まで心を込めて精一杯尽くしたのだから、その点では悔いは残らなかったであろう。
夫を亡くしてすぐは、寂しさが募ってどうしようもない状態だった。東京の私の公務員住宅にしばらく居てもらった。その後、仙台の家に帰ったが、それからは気丈に一人暮らしを送るようになった。一人暮らしが20年以上となり、母も80歳を超えたころ、母としてはまだ一人暮しを続ける気だったが、子どもたちから見れば心配でしょうがない。仙台市内の有料老人ホームに入居してもらった。
ホーム暮らしを母は気に入っていたようだ。職員はとても親切、食事は栄養バランスにも配慮されておいしい。ホームでは、誕生会、小旅行、歌の時間、体操、それに「お勉強」もあった。算数はいつも百点。歌の時間では大きな声で歌う。子どもたちにすれば、「いいところに入居できてよかった」と安心できるところだった。
私が母の顔を見にいくのは月に1回程度だが、敞子姉は同じ仙台に住んでいることもあり、週に2、3回通っていた。90歳を過ぎたころからだろうか。物忘れがひどくなった。教育勅語はそらで言えるが、3分前のことは覚えていない。私が会いにいったときに、「あんた誰だっけ」と言われてショックだった。
令和2年(2020年)10月10日、母は眠るようにして息を引き取った。文字どおり老衰である。痛みも苦しみもない。百歳の大往生といえる。人生いろいろあっただろうが、最後は幸福だった。
◆プロフィール
浅野 史郎(あさの しろう)
1948年仙台市出身 横浜市にて配偶者と二人暮らし
「明日の障害福祉のために」
大学卒業後厚生省入省、39歳で障害福祉課長に就任。1年9ヶ月の課長時代に多くの志ある実践者と出会い、「障害福祉はライフワーク」と思い定める。役人をやめて故郷宮城県の知事となり3期12年務める。知事退任後、慶応大学SFC、神奈川大学で教授業を15年。
2021年、土屋シンクタンクの特別研究員および土屋ケアカレッジの特別講師に就任。近著のタイトルは「明日の障害福祉のために〜優生思想を乗り越えて」。
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