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脱施設化に向けて その4~Y子さんの自立 Part1~ / 安積遊歩

施設はどんなに良い施設でも、人間の本質が求める自由と幸福を得られる場所ではない。ということを友人の娘さん、Y子さんの一人暮らし、いや正確に言えば介助の人との暮らしの実現に向けた取り組みから書いてみようと思う。

Y子さんは5月16日に、公営住宅の一室に施設から出て住む。私はその話を聞いたとき、心底驚いた。なぜならY子さんは私が知る障害を持つ人の中で最重度。その身体による要求は、いわゆる排泄も食も36歳の大多数の人とは全く違う。オムツを使い、胃ろうから食事も摂っている。言葉でコミュニケーションするということもしないし、声も表情も読むということは、難しい。彼女は、仮死状態で生まれてきたので、初声を上げていないし、36年間泣くのを見たことが無いという。

しかし、私の言葉で言えば彼女こそ「完全なる平和の人」だ。私は最重度という言葉を、優生思想に満ち満ちたこの社会に通用する為には使うが、そこから導き出されるイメージのあまりの貧困さ、悲しさはとめどがない。

Y子さんのいた施設はケア付きの自立ホームといって、十人が完全個室に住んでいる。自立ホームだから、外部からの人の出入りも完全に自由だ。ところが、個室ではあるけれど、やはり十人が同じ建物の中に一緒に住めば、多少の管理は必要となる。それでも、少なくともコロナが蔓延する前までは、どんな管理があったのかさえ可視化されないくらい自由だった。つまり、食事や消灯時間などの縛りも全くなかった。

Y子さんのお母さん、つまり私の友人を全く通さなくとも、私が自由に遊びに行くことができた。電話で約束することも必要なく、私の友人である母親の許可も、ケアに入っている人たちの許可も必要ない。「こんにちは」と突然部屋に入っていける施設は、私の中では異例の場所だった。

ところが、コロナの蔓延でその施設もまた管理の優先する施設となってしまった。つまり、クラスターが起きないようにと面会が極端に制限されていったのだ。親でさえ1日15分ということになり、私のような親の友人でしかない者は、全くY子さんに会えなくなった。

Y子さんは母親である友人のお腹の中にいた時は、とても元気な赤ちゃんと言われていた。ところが、仮死状態で産まれ、酸素が脳にいかなかったことで他の赤ちゃんとは全く違った身体となった。生後2ヶ月からリハビリを進められ、母子入院を1年に1回ずつを3回続けたという。母子入院1回目以降は、毎月1回リハビリに通った。
1歳半の時には重い肺炎となり、生きるか死ぬかの危機を乗り越えた。

そこを乗り越えて友人は、Y子さんの兄弟を作ることを決意。つまり、彼女の、必死に生きよう、呼吸しようとする姿に寄り添い続けて、それを応援する仲間が必要だと考えたというのだ。その仲間として弟たちを産んだ。Y子さんと3歳違いの年子の弟たちは、彼女の生きようとする姿を伴走し、記憶するという重要な役を担った。

Y子さん自身は、弟たちの存在をどのように思ったのか。それを私たちが理解する形では表現していない。ただ、友人は弟たちがサクションや吸引を手伝えるようになると、忙しい時には彼らの手を自然に借りることもあった。Y子さんが人工呼吸器を付けたのは8歳の時。その下の弟は5歳で、時々は友人に頼まれて人工呼吸器のケアをしたという。

友人はY子さんの生きようとする強い意志に寄り添い続けて、小学校の入学の時にある決断を下した。その決断は、ただただY子さんの身体の現実を変えるために時間は費やさないということ。つまり、リハビリや母子入院から学んだことは、Y子さん自身は、歩くことはもちろん、起き上がったり言葉を発したりということは全くしない身体であるということ。小学校に行くということは、Y子さんの身体の現実を受け入れて彼女と共に生きる人々の群れをつくっていく。それを目的としたのだった。

小学校入学の時に勧められたのは養護学校だった。しかし、養護学校に通うための時間より、歩いて5分のところにある普通学級に通うことにした。教育委員会や小学校の教員たちは、彼女の決断を「絶対に無理」と言ってきた。時には暴挙と決めつけ拒否してきた。それでも彼女は入学までの6年間、十分にやれること全てをやり切ったという思いでいっぱいだった。

またY子さんの父親は、ある施設に勤めていた。そこで施設の利用者とレストラン等に行く度に、はじめは彼らの存在に驚いた人達が、2回目、3回目と行く度に少しずつ対応を変えていくのを見ていた。つまり、車椅子で座りやすい席を用意したり、スプーンやストローが必要な人にはそれを提供したりなど、障害をもつ人の存在が人々の柔軟性を引き出し、周りの人々を変え、共に生きていく社会を創る。
友人達はその観点から養護学校の価値を見出せなかったのだ。

結局、Y子さんは養護学校に籍を置かされたが、そこに一度も行くことはなかった。いわゆる養護学校へは不登校となった。弟2人共保育園から不登園となり、小学校中学校ともほとんど行かなかったという。Y子さんは養護学校に籍のあった4年間、毎年のように「小学1年生」として名前を呼ばれた。同じ不登校でも、弟たちは留年することはなかったにも関わらずである。なぜ養護学校の不登校だけは留年と言われたのか?

それに気付いてから友人は市教育委員会に働きかけ、とうとうY子さんがいける場所として一部屋を学校内に確保した。弟2人も不登校しながらも時々はその部屋にやってきて、給食だけは食べたという。詳述すれば、末の弟の担任だけが最初に給食を食べるだけに学校に来ることを受け入れた。

その担任に出会うことで、時々の学校通いが始まったという。Y子さんの自立生活は、どんな身体であっても管理されずに人に出会う自由を求めてのこと。次回は、24時間365日のケアを得るまでの軌跡をさらに書いていく。

 

◆プロフィール
安積 遊歩(あさか ゆうほ)
1956年、福島県福島市 生まれ

骨が弱いという特徴を持って生まれた。22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。

著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。

2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。好評で再放送もされた。

 

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