『パパは新米支援員』前編 / わたしの

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

虎吉(トラキチ)は屋上で煙草をふかしながら何気なく金網越しに地上を眺めていた。

すると施設の正面玄関から一人の青年が真っ直ぐに走り出し、自分の家に帰っていく姿が見えた。

青年は途中で三回ほどバレリーナのようにくるくると回り、門を抜けたかと思ったらもう一度戻ってきて改めて門を抜け、また戻ってきて右足を大きく上げて施設の敷地と道路の境界線を跨いだ。その後は直角に道を曲がって早足で脇目も振らずに帰り、横断歩道を渡った所で見えなくなった。

「相変わらず変な野郎だな」

虎吉は煙草の煙を吐き出しながら思わず呟いた。

確か名前は「幹太(カンタ)」だった。虎吉が配属されたグループにいる青年だった。

「あれが儀式って本当か?」

幹太がやってるのはなんだ?と、先日職員に聞いたら「儀式的行動」と説明されたのを思い出した。移動の際にくるくると回ったり、扉や門を越える時にやり直しをするのが「自閉症の特徴」だと言っていた。
「へー」とその場では答えたが、内心よく分からなかった。

職員は熱心に色々と説明してくれるが仕事をはじめたばかりでこの世界のことを何も勉強していない虎吉には理解できないことが多い。
例えば「オウム返し」も「自閉症の特徴」だと言うし「コミュニケーションの障害」も「自閉症の特徴」だと言っていた。

そもそも「自閉症」ってのが何なのか虎吉には分かっていなかった。
しかも、ある職員が言うには「自閉症はスペクトラム」だそうで、スペクトラムというのは線引きできない地続きなものという意味合いで、ここからここまでの人が「自閉症」だと言えないという。「普通」の人と地続きなのだそうだ。それもまた虎吉を混乱させたが、その混乱も長くは続かなかった。

「まぁ、何でもいいか」とすぐに忘れることにしたのである。
難しく考えるのは好きじゃなかった。

「まぁ、変な奴らがたくさんいるってことだ」

重度知的障害者の日中活動の支援。
それが虎吉の新しい仕事だった。

36歳で売れないミュージシャン生活というのか、フリーター生活に区切りをつけようと色々な仕事をしてみたがどれも長続きしなかった。ぶらぶらしていた期間が長すぎてどうも我慢が足りない性格になってしまったらしい。世間の厳しさに直面するとすぐにギャンブルやお酒に頼ってしまいたくなる。

しかし、そんな甘ったるいこともしていられない。
虎吉にはお金を稼がなければいけない理由ができた。何が何でも働かねばならぬ。

友人に相談したところ「福祉はどうだ?」と、福祉をすすめられた。
虎吉はその言葉を聞いた瞬間に思わず吹き出してしまった。冗談だと思った。

「ダメ、ダメ。俺が福祉なんてできるわけないだろ?

あの24時間テレビでやってる愛とか思いやりとか絆とか、…そんで最後は涙する奴だろ?

俺に向いてる訳がないじゃん。
眩しすぎて申し訳ないよ。俺みたいなさ、泥にまみれたミュージシャン崩れが手を出しちゃいけないって」

「そうかな…」と友人は言った。

「知り合いにいるんだよ、もともと役者目指していて今は福祉で働いてる奴が。人が足りなくてどこも困ってるんだってよ」

「でもな、飯喰わせたりウンコやシッコの世話したりするんだろ?
介護とかさ支援っていうけど、助けてほしいのはこっちの方だからさ、そんな俺なんかにはとてもじゃないけど人様のお世話なんてできないよ」

何度も断ったが友人はしつこく虎吉を誘い続けた。最後には虎吉も折れて、そんなに言うならということで面接だけ受けてみることにした。
面接ではそこの施設長と10分ばかり世間話をした。それだけだった。資格も何もいらないからとにかく明日から来るようにと、柔らかい微笑みを浮かべた施設長から言われた。
その微笑みに虎吉も気付いたら「はい」と頷いてしまった。
虎吉はあっさりと採用された。

続けられる自信はまったくなかったし、気乗りもしなかったが採用されたので仕方なく行ってみることにした。家にいても何も変わらない。福祉ってものも少しだけ経験してみるか、とそんな軽い気持ちで働きはじめた。とにかく働いて稼がなければという気持ちも強かった。

働いてみると虎吉が想像していた仕事内容とは少し違っていた。

「重度知的障害者の生活介護施設(通所)」

そこにいたのは重度知的障害を伴う自閉症の18歳~54歳の人たち(職員は彼らを利用者と呼んでいた)で、彼らは食事も自分で食べられたし、トイレも介助する必要がなかった。歩行の支援も必要なかった。中には家からひとりで通ってくる人もいた。職員に手紙を書く人もいたし、家から電話を掛けてきてメッセージを伝える人もいた。

一目見ただけでは彼らは介護も支援もいらないように見えた。

しかし、よくよく観察しているとそうではなかった。

食事は自分で食べられるのだが放っておくと喉が詰まるまで口に食べ物を入れる人や、ポットの中身がなくなるまでお茶を飲まないと気が済まない人、野菜がまったく食べられないのに無理矢理食べようとして吐いては食べ吐いては食べを繰り返す人などがいた。

トイレも全部自分でできるのにも関わらず、なぜだか時々トイレの壁に尿を撒く人がいたし、全てのトイレの水を流さないとトイレが終えられない人、蛇口から出る水の流れにうっとりと見入って平気で一時間をその場で過ごす人もいた。

長いタイプの蛇口がジェットコースターのトリプルループのようにぐるぐるに捻られているのを発見した時は驚いた。それはある利用者が素手で曲げたことを職員から聞かされてさらに虎吉は驚いてしまった。

「かなりRockだぜ」と思った。

幹太のように歩行はまったく問題ないけれどくるくると回ったり、扉や門を越える時にやり直しのために戻ってきて改めて歩み出すなど特殊な歩き方をする人たちがいた。

言葉を喋れない人が多かった。
声にならない声で叫ぶ人、身振り手振りで伝えようとする人、決まった二三の単語で話そうとする人などがいた。それぞれ独特の表現方法でコミュニケーションを取ろうとしているように見えるのだが、虎吉には何を考えているのか、何が言いたいのか、何がしたいのか、そもそもそれが表現なのかさえよく分からずにいて、側で見守っているしかなかった。

先ほどくるくると回って走って帰って行った幹太も言葉を話すことができなかった。「アッアッ」とか「ウー」とか言葉にならない声を出したり、身振り手振り、指差しで職員に意思を伝えたり、それでも伝わらない時は職員の手を引っ張って欲しいものやして欲しいことに関連する場所まで連れていくことで伝えようとしていた。

虎吉には何を伝えようとしているのか分からなかったが、長く関わっている職員には言葉にならない言葉の意味や身振り手振りの意味が分かってくるらしい。

「そういうものなのかー」と職員の話を虎吉は感心して聞いていた。

学術的なことはまったく分からない。難しいことも分からない。しかし、言葉にならない声や身振りが言葉以上にメッセージを伝えるってことは経験上知っていた。

ステージの上でスポットライトに照らされて、ギターを掻き鳴らし、歌い、そして最後に言葉も捨て去り(服も脱ぎ捨てる人もいるけど…)言葉にならない声と体ひとつだけが残って、そこから絞り出すように魂の叫び声を上げる。その叫びにはあらゆる哀しさや苦しさや辛さや怒りがあり、そしてまたカタルシスや喜びや恍惚やこの世の美しさがあった。

ミュージシャンを目指していた時に虎吉は憧れのロッカーたちのそのような尊い叫びを何度も目撃した。その度に魂を揺さぶられ奮い立たされ励まされ救われ、いつか自分もあのような叫びができるロッカーになりたいと願ったものである。
言葉なんかいらない、そのことは虎吉はよく分かっていた。

福祉の仕事はまったくはじめてで異世界であったが、そこにいた利用者にはどこか親近感というのかうまく言葉にできない「なじみ」のようなものを感じた。その気持ちがどこから来るのかは不明であり、ずっと不思議に思っていることだった。

「かなりRockだぜ」

その一言で全てが解決するようにも思える。
しかし、仕事をする上で虎吉にとって問題は利用者ではなく「職員」だったり「福祉のムード」の方だった。そちらにはちっともなじめない。

「かなりRockじゃない」

と思ってしまい、すぐに当たり前だと思い直すのである。Rockじゃなくて当然。だってRockじゃないもの。福祉だし、仕事だもの。

なじめなくて虎吉の笑顔はまだまだぎこちない。振る舞いもだらだらしていてふてくされているように見える。職員と同じようにしなきゃとも思うが、反面ああなったら負けだとも思っている。どうにもこうにも割りきれない。もう40歳近いのに大人になれない。ミュージシャンである自分が捨てきれていないのであった。
それで休憩時間になるとすぐに屋上に逃げて煙草をふかしていた。

高校時代と何も変わんないな、と自分でも呆れるほどであった。

「虎吉さんいますか?」

虎吉を探す声がした。

「ここにいるよー」

屋上に上がってきたのは同じグループでリーダーをやっている乃亜(ノア)という男だった。

「虎吉さん、休憩時間中にすみません」

「何?」

「あの、今日の終りのミーティングの時間で『ハッピーデイ』の企画を考えたいのですが、少しミーティングが長引いてしまうのですがよろしいですか」

「どのくらい?」

「えーっと、一時間半くらいなので18:15には終えたいと思います」

「なら大丈夫だ」

「ああ~よかった。じゃあそれでみんなに声掛けますので。『ハッピーデイ』の説明とか内容はまた後でお話します」

そう言って乃亜は笑顔でお辞儀をすると帰って行った。爽やかな笑顔だった。
乃亜の姿が完全に見えなくなったあと、
「なんだよ『ハッピーデイ』って。気持ち悪いネーミングだな!」

虎吉は小さい声で吐き捨てるように言った。やっぱりなじめない。かなりRockじゃない。

この仕事長く続けられるだろうか…。
虎吉は屋上でひとり頭を抱えるのであった。

~つづく

 

 

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