土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)
妹は私の2歳年下。生まれた時から私のケアをすることがあまりにも「当たり前」と育てられた。私もまた、妹にケアしてもらっているという自覚が全く無かっただろう。妹は私の側に居て、私の求めに応じ続けてくれた。
自分の身体が、私の様々な要求を叶えるためにあるのだ、というふうにいてくれた妹。身体の自由が効かない私は、母と妹の身体で自分の自由を確保し続けた。
妹には3人の男の子がいるが、どの子も自分の人生というものにフォーカスするというよりは、常に自分の周りにいる人に対してケア力を発揮することが自分の喜びであるかのように見える人たちだ。それは妹が幼い頃、私と居た時間で学んだことに大いに影響を受けているからだ。
ところで、1979年に立法化された養護学校義務化、この法律によって養護学校が全国に作られていった。それだけでなく、地域の中の学校にも特殊学級という名の障害児のためのクラスがどんどん増えていった。
ための、とは書いたがこの法律は日本で、戦後初めて自民党と共産党が手を取り合って可決された法律。私は青い芝の会の仲間と共に猛烈に反対運動をした。この法律によって地域の学級の中にいた子供たちは発達保障ということで追い出され、一室に隔離された。また、重い障害児にも教育権をということで教員が、家に訪問教育という名で派遣された。隔離と排除が正当化され法律にまでなったわけだ。
私にとっての教育は共に行きていくための力をどんなふうにつくっていくかだ。そのためにはまずお互いが同じ場所に存在し合わなければ、共に生きるということはありえない。
養護学校義務化の法律は私から見れば「お金を儲けることが一番の幸せ。稼いで儲けて、たくさんの物や自由までも買おう」という経済システムのための制度であり、クラス分けでもあったとしか思えない。つまりはそのお金で幸せを得るのだという能力主義に邁進するためのシステムだったのだ。その教育の結果として、2016年やまゆり園事件が起きてしまった。そのことにしっかりと向き合いつつ、妹の子育てを更にみていこう。
その法律以後、障害を持った子供たちは地域の普通学校から大量に追い出された。多様性に対する柔軟性を養える筈の子供の時に多様な子供たちとの出会いを奪われた、いわゆる健常な子供たち。
私が見るところ、その後学校には校内暴力に始まり、学級崩壊やいじめ、そして登校拒否や不登校が顕在化していった。そして最近では、発達障害や自閉症スペクトラムと言われる子もどんどん増えてきている。
妹の長男は、福島市では非常に早い方の登校拒否だった。何が直接の原因かは直ぐには言わなかったが、幼い時から私の車椅子を押し、当時私のパートナーであった脳性麻痺の人にも可愛がられていた彼にとって、学校に私のような人たちがいない事が違和感だった。だから教頭や校長にまで、何故、車椅子の人や色んな人が居ないのかを聞きまくったり、担任には学校で勉強することが一体何になるのか、などという事をよく尋ねたらしい。
ところで私の一番嫌いな言葉は「我慢」と「逃げてはならない」という言葉だ。この2つは母親からは言われたことがなかったが、施設に入ってから毎日のように職員が言っているのを聞いた。痛い注射をされても「我慢しろ」と言われ、施設から出たいと言えば「逃げてはいけないでしょ」と言われ、自分の感覚や身体の声に基づいて生きてはならないと言われ続けた2年8ヶ月。それ以降も地域の学校に行きたくても「来るな」と言われたり、私はすっかり養護学校というものが嫌になっていたし、地域の学校での競争主義も嫌いになっていった。だから妹の長男が学校に行きたくないと思ったときは私だけが本気で喜んだ。
そして次男も三男ももちろんお兄ちゃんが学校に行かないわけだから、それに続くのは当然だった。妹は初めは本気で行かせようとしたらしい。行かせようとしてどうしようか分からなくなり私に電話したら、「いいよいいよ学校になんか行かなくても。私の車椅子を押してあちこち行けるわけだからそれで十分勉強になるよ。」と言ったものだから、そのあとしばらくはあきれて電話をくれなかった。
その頃介助料制度がなかったので、あちこちに出ようとするたびに介助者探しに苦労していた。だから甥っ子が登校拒否をして、私の車椅子を押せる時間がいっぱいできたことは私にとっては実に幸せなことだった。妹も子供たちがどうしても行かないと分かってからは、彼らが行かないことを負い目としないように、子供たちの完全な味方になって3人を連れて本当によく遊びまくったという。家の中でも外でも学校に行かなくなった彼らと遊びまくっていた日々。今でもその楽しかった日々は、彼女にとって「宝石箱のような時間だった。」と話してくれる。
妹のパートナーは大工で無口な人だった。彼は、子供たちが学校に行かないことを全く非難せず、妹がやっていることには関心がないふうだった。妹はそんな中、子供たちの不登校仲間を少しずつ見つけていき、何人かの母親たちと一緒に子供たちのためのフリースペースをつくっていった。
彼らは十代の半ばぐらいから本当に自由に旅に出るようになった。特に長男は東京の私のところや北海道、ニュージーランドにも住んだし、九州、沖縄、東北のチベットと言われる所にまで足を伸ばしている。様々な体験の中で自分育てをしていたと思う。妹は彼らがどんなに過激な体験をしていても、それを止めることなく見つめ続けていた。彼らの不登校仲間も彼女によってずいぶん救われていた子がいるだろう。
ただ彼女にそれを言うと、必ず返ってくる言葉がある。「そんなことないってば。私も学校が好きじゃなかったから、そうなっただけ。」という言葉だ。子供にとって何が幸せかをよくよく見つめ、彼女が懸命に子供の側に立って生きる姿によって、それを伝え切った妹。
今彼女には5人の孫がいる。2011年の福島原発事故のときには孫はまだ一人だったので、その子とその子の母を連れて4年間山形に逃げてくれた。つまり避難してくれたのだ。命を守り、その命の自由を育てるためにただひたすらに懸命で賢明な妹。その生き方は私にとっての大いなる希望である。
◆プロフィール
安積 遊歩(あさか ゆうほ)
1956年、福島県福島市 生まれ。
骨が弱いという特徴を持って生まれた。22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。
著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。
2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。好評で再放送もされた。