赤國幼年記⑬ / 古本聡

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

似非科学に殺された障害児たち

それからの3か月はあっという間に過ぎた。いや、目まぐるしくといった方が正確だろう。

今思い出してみても毎日検査が繰り返されたことしか憶えていない。かすかに記憶にあるのは痛みや苦しみが異常に強く感じられたものだけである。その1つとして挙げるとすれば、聴覚検査がある。耳の中に大きな漏斗のようなものを突っ込まれ何か薬臭い液体を流し込まれるのだが、その液体が鼻にも咽喉にも入り込んできて、脳天まで響くような激痛が走るのだった。それはちょうど、プールで鼻に水が入った時の痛みと似ているのだが、その強さは数百倍とも思えた。あの液体が何だったのかは未だに分からない。

私の耳は、特に右耳は、生まれてから2か月間保育器に寝かされていた事もあって、外耳も内耳も歪んでしまっているらしい。だから、幼いころから耳垢が詰まりやすく、耳鳴りが数時間続くことがあった。多分それを治そうとしていたのではないかと、今はそう思える。

前にも書いたが、朝の浣腸やら注射、カッピング、他にも痛かったことは数えきれないほどあるが、今となっては何をされていたのかははっきりとは憶えていない。ともかく毎日、痛い感覚を持ち続けた3ヵ月だった。

しかし人間というものは不思議なもので、そんな痛みにも、どんな大きな苦しみにも、そして悲しみにさえも慣れてしまうようだ。

その3か月の間、そしてその後も、周囲の子たちは顔ぶれがどんどん変わっていった。

退所していったのではない。この世からいなくなっていったのだ。ただ私は、まだ、あの頃、その子達が死んだという認識はなく、ただある日突然、昨日まで遊んでいた子がいなくなったから違う子と遊ぼう、という事を繰返していたように思う。

それでは、死んだという事を認識していれば悲しかったかと言われると、そうだったという自信はない。死があまりにも多すぎて、頻繁すぎて、身近過ぎて感情が湧いてくる暇がなかったのだろうと思う。

でも、あの時の私に死というものが理解出来ていたとしても、周囲の大人たちがあまりにも平々としていたので、死生観や世界観が狂ってしまったのではないだろうか。
何が起こっているのか分からなくて、かえって良かったのかもしれない。

ところで、話が急に変わるようだが、トロフィム・デニソヴィチ・ルイセンコという人物がいたのをご存じだろうか。ルイセンコは、元々ウクライナの農学校を出た農業技師だったのだが、政治的に動くのが非常に上手く、1930年代のスターリン体制から1964年までのフルッショフ失脚までの30数年間もの間、ソ連の学術界全体を正に牛耳った男である。

彼は己の似非理論に独学の育種家ミチューリン(1855~1935)の名を冠し、「ミチューリン主義」と名付けたが、国外では「ルイセンコ学説」の名のほうで知られているようだ。
今では、「ルイセンコ主義」の名称はあまり使われないが、「学問」または「科学」とは到底呼べぬ代物だった。

その内容は、一言で言えば獲得形質遺伝説である。しかしこれは、ダーウィンよりも50年も早く進化論を唱えたラマルクの流れを汲むというよりは、単に頭が悪い上に学がなくて、遺伝子の働きを明らかにしたメンデル遺伝学を理解できない男の妄言に過ぎない。

彼が台頭するきっかけとなったのは、1928年に発表した「春化処理」である。秋撒き小麦の種子を湿らせて冷蔵しておくと春撒き小麦になる、すなわち厳しい「環境」によって、春撒き小麦の形質を「獲得」するというのである。

ルイセンコは、この春化処理の実験を大規模に行ったのだが、その結果として、300万人の餓死者が出た。その舞台となったのは、この人物の故郷であるウクライナで、同国ではその出来事を未だに「ホロドモール(大飢饉)」と呼び、民族対立の種の一つとなっている。

こんな戯言が罷り通ったのは、ルイセンコとその主張がスターリンに気に入られたからだが、その背景にあったのは、ソ連の社会に通底する「小難しい理論への反発」「西側世界への反発」だと言える。また、生物を厳しい環境に置けば、自発的に改良作用が働き、より優れたものになっていく、という全くの出鱈目がスターリンの矯正主義と見事にマッチしてしまったからだ。スターリンは、どうやら、人間も厳しい状況下におけば自発的な人格改造が可能だと考えていたようだ。すなわち、スターリンは自らが採った粛清と矯正という政治手法の学術的な後ろ盾を得たという事になるのだ。

1930年前後、「ブルジョア科学」を排斥し「プロレタリア科学」を打ち立てよう、という動きが、若い科学者たちの間で起こっていた。それまで活躍して優れた業績を上げてきた多くの研究者が、「ブルジョア的」「観念論的」「反マルクス主義的」だとして糾弾された。

この動きによって、西側のメンデル遺伝学とラマルク主義の対立も激化した。どちらも自分たちこそがマルクス主義と弁証法的唯物論に合致する唯一のものだと主張したが、形勢はラマルク主義者たちに有利だった。

旧ソ連で当時もてはやされていた、このラマルク主義だが、素人が考えても、それはあり得ないだろう、と思われる実におかしな点がある。それは、生物が進化していくときに細胞一つ一つが意思を持ってより良い方向に変わっていこう、という考え方に立脚している事だ。例えば、ダーウィニズムでは、キリンの首が長いのは、ただ単にキリンが食べやすい樹木の葉が高い所にあったからだ、という純粋な環境依存説が有利なのだが、ラマルク主義では、キリンが意識を持って高い所の美味しい葉を食べようとした、となっているのだ。

このような旧ソ連独特な学術界の潮流の影響は、ソ連の農業や生物学のみならず、医学界をも巻き込み、そして、その傾向に沿って私達のような障害児も、材料として社会主義的科学の成果を創り出す為に使われたのではないか、と私は考えている。

その際、障害児1人1人に求められたのは、ラマルク主義が述べるような細胞レベルからの向上心、すなわち、まともな身体になろうという全細胞的な意識だったのだろう、と私は今考えている。そして、医療的介入を強化して、意識的な変化を刺激しても何の効果もない子供たちは、細胞レベルでの向上心がないと判断され、排除そして、処分されていった、という事なのだろう。

しかし、考えてみれば、一見科学的に、かつ唯物論的に見えるこのような医療体制において、大きく欠落していたものがある。それは、命、という概念ではないだろうか。

◆プロフィール
古本 聡(こもと さとし)
1957年生まれ。

脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。 旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。

早稲田大学商学部卒。
18~24歳の間、障害者運動に加わり、障害者自立生活のサポート役としてボランティア、 介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。

2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。

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