社内公募企画「自分と自分の夢について」 / 伊藤正広(東海)

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

昭和37年10月、父46歳、母34歳の時に4050gで生まれ、昭和40年8月には妹も産まれ、両親と祖母の5人家族で育つ。

母は小学2年生の時に日本脳炎にかかり、14歳からミシン製造会社で働き、戦後は腸結核で療養所へも。30歳まで生きられないと言われたが、健康になり2人の子供を産み育て、83歳まで生きた。

父は岐阜県で七人兄弟の末っ子として生まれ、小学校を卒業した後は隣村の老舗カステラ店の丁稚に、その後ミシン製造会社で母と出会った。私が生まれて直ぐに交通事故に遭い、意識不明の重体で医師から助からないと言われたが、母や祖母、多くの友の強き祈りで奇跡的に回復し、事故後遺症で障害5級を受けたが定年退職まで勤め上げた。

そんな両親に育てられ、中学2年生の時に父が60歳で定年退職した際には、家計を助けるため少しでも早く働く事を考え、進路を職業訓練校に取った。手当が貰えて資格も取れ、技能も身に付き、就職先も斡旋してもらえるからだ。

同時に県立定時制工業高校へ進学し、夏休みは近所のめっき工場で働き、冬休みは年賀状配達のアルバイトをしていた。

職業訓練校を1年で修了し、名古屋の鉄道車両製造会社に正社員で入社した。夜は定時制高校に引き続き通学した。

そんな時、父に腫瘍が見つかり、入院し手術を受けた。通院の付き添いをする為、転職し、定時制も中退することとなる。しかし悪性腫瘍は全身に転移していて、手術も不可能であり、父は自宅療養となった。

父を安心させる為、高校の教科書ガイドを購入して独学で愛知県警察官採用試験(一次)に合格した。合格前提の二次試験面接で父の病気を伝えると、「警察学校に入ったら自由に休めなくなる。あなたの様な方に警察官になってもらいたいから、不謹慎だが父上が亡くなったら」と言われ、保留扱いとなった。

毎年、警察署長や、父が亡くなった年には警察学校長にまで受験依頼の電話を頂いたが、その年は私がバイクで通勤中にトラックに跳ねられ、骨が飛び出す開放骨折で入院。当時の受験年齢最後の年だったので、残念がられながらも、受験は諦めざるを得なかった。

その数年後、業界3位の大手警備会社に入社し、試用期間中に幹部候補試験で三次の役員面接へ。その為、全て通常の3分の1の最短で昇進し、本部員となった。指令管制責任者となり、隊員の指導教育のため多くの国家資格・公的資格も取得した。町田市の本社研修所の教官の内示があったが、自宅建て替えの為、退職を選んだ。

その後、都市ガスグループ会社に教育労務管理で採用され、総務・財務も兼務し、ガス工場の地下式タンク工事プロジェクトの警備責任者としても勤務した。工事完了を機に、脳性麻痺一級の妻のヘルパー不足の為、変則勤務から日勤に異動を申請し、ガスメーター工事と開栓業務になる。

会社や同僚の配慮でヘルパー不在時、勤務交替してもらっていたが、ヘルパー不足は補えず、妻一人で12時間以上水分補給も服薬、食事も取れない状況が増えたので、転職を考え、1年がかりのプロジェクトをスタートする。

実務者研修資格を休みに合わせ教室を転々としながら半年で取得した。

縁あって妻が前会社の利用者になり、その時のコーディネーターさんからお声かけ頂き、統合過程を受講して非常勤ヘルパーとして兼業を始めた。同時にガス会社の上司に退職の意志を伝え、半年で後任を育成して昨年3月末に円満退職した。

在職中には自己正当型注意欠如多動障害の社員のサポートを頼まれたこともあったが、心理カウンセラー、FITファシリティター、箱庭カウンセラーの資格も取得しており、活かす事が出来たのを嬉しく思う。

昨年4月から前会社の常勤社員となり、今に至る。

今後は、日常生活全般を適切に支援出来るアテンダントの育成やメンタルサポートをしてみたい。前職の防火防災、セキュリティ等のリスクマネージメントの経験や資格も活かす事が出来ればと思っている。

 

伊藤 正広(いとう まさひろ)
ホームケア土屋 東海

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