『古希とほくろ』 / わたしの

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

お風呂に入っていたら、

「あっ、パパの耳にほくろ!」と、2歳の娘が耳たぶを指差して嬉しそうに言った。

ほくろを発見した喜び。そして発見できる自分ってすごいでしょ!という天真爛漫な自己肯定をまっすぐ私に投げ掛けてくる。

「他にはあるかな?」

そう娘に言ってから、はて自分の体にはどこにほくろがあるのだろうかと思った。私は40年近く生きてきたが体のどこにほくろがあるのか知らない。
これまでそんなことを気にかけたことがなかった。

「あったよ!」娘が私の左肩を指差す。

本当だ。しかもふたつ。
私の左肩にはほくろがふたつあったんだ。知らなかった。

ふたつのほくろの並びを見ていたら、子どものときに夢中だった星座表を思い出した。
星座が好きで、そこからギリシャ神話が好きになった。ヘラクレス、ペルセウス、ガニュメデス。アポロン、カシオペア、アンドロメダ。エウロペ、ヘルメス、ニュクス、エレクトラ。

プラネタリウムにもよく連れて行ってもらった。
すっかり夜の星空を見ても何も感じなくなってしまったけど、神話はずっと残っている。子どものときのまま。よく覚えてるものだと自分自身感心する。

「ここにもあった!」

今度は胃の辺りを娘が指している。確かに肋骨が左右に分かれていく辺りにまたふたつ、大きいのと小さいのが並んであった。これも知らなかった。

「見て、パパ!」

「あるねー」

「パパ、見て!」

他の人はどうなのだろう?自分のほくろの位置を把握しているのだろうか?

私は自分のほくろにさほど興味がなかった。これまでの人生で自分のほくろの位置を確認するという発想がなかった。
発想がなくても、何かの拍子に見付けたら「ああ、自分という人間は肩にほくろがあるのだな」と記憶していてもおかしくない。しかしそんな些細なことに注意を向ける余裕もなく、無駄なことにせわしなく生きてきたのだと思う。無頓着に生きてきた。

この歳になってじっくり自分の体を眺めたのであった。

◇◇◇

湯舟の中でずっと遊んでいたい娘をお風呂から誘い出す文句は、

「湯気出るかな~」である。

風呂場と脱衣場の扉を開けると風呂場の湯気が脱衣場に流れ込む。その湯気が白熱灯タイプのLEDの光に照らされてキラキラ光って帯状に流れていく。綺麗な湯気を一緒に見ようと言ってお風呂から出る。

扉を開けて二人で見上げると、今日もまた湯気は綺麗に流れていた。

ひとしきり湯気を見たあとは足跡である。
薄いグレーの足拭きマットに濡れた足を置いたときに足跡がくっきりと出るかどうかも楽しいらしい。自分の足跡と私の足跡を見比べて喜んでいる。ふたつの足跡が並んでいる。

「パパの足跡は大きい!」

「本当だね」

「見て、パパ。パパ、見て!」

娘が私を呼んでいる。

◇◇◇

明くる朝、ちょうど田舎の父の誕生日だった。
「誕生日おめでとう」とLINEを送った。

夜になって返信がきた。

「気付いたら70歳になりました。あとはよろしくお願いします」と書いてあった。

70か。古希のお祝いと言うらしい。
杜甫曰く『古来希なり』ということで古希らしいが、杜甫の時代から比べると現代では70まで生きることは希ではないのかもしれない。

それでもよく生きた。喜ばしきことでは確かにある。

あとはよろしく。最近、ちょっと弱気になってきた印象がある。ずっとこたつでテレビを見て過ごし、あまり動かなくなった。ゴルフもあまり行かなくなった。料理を振る舞うのが好きだったけど近頃は作らなくなった。手間のかかるものを面倒くさがる。耳も遠くなった。

70だから、仕方ないよ。

そりゃそうだ。

何か欲しいものがあったら買ってあげよう、と思った。聞いてみて好きなものを、少し高価な物でも構わない。何かをあげたい。スマートウォッチでもいいし、高級牛肉でもいいし、羽毛布団でもいい。もし仮にハワイ旅行と言われたら………頑張って実現してあげたい。
とにかく何かお祝いをしたい。もし何かの形でこれまでの感謝が伝わるのであれば伝えておきたい。
そんな風にはじめて思えるようになった。

若いころは貧乏過ぎてそんなことはできなかった。花を贈るときも野原の花を摘んで渡した。
今も常に火の車。余裕があるわけではない。しかし、幸いなことに仕事があるので別に分割でもなんでもして購入することは可能だろう。

電話をかけてみることにした。

ちょうど父が出た。家に一人でいるらしい。母は近くの体育館で行われているテニススクールに出掛けて行ったそうだ。

「何か欲しいものある?」電話口で私は聞いた。

「いらない」と父は言う。

「何にもないの?」

「ない」

その言葉と態度を受けて、先ほどまでプレゼントをあげたい、お祝いしたいと思っていたけど内心ムカついてきた。急にあげる気が失せた。

「ありがたくもらってくれればいいのに!かわいげがまったくない」そう思う。

言葉では言い表せないこれまでの感謝の気持ちを物に託して押し付けたいとこちらがわざわざ言ってやってるんだから、そこは父親の度量で慎んでお受け取りいただき「良い息子を持ったなー」と目頭を熱くさせるくらいしてくれればこちらもプレゼントを渡す甲斐がありたいへん満足するものを。

ていうエゴイスト。

「本当にないの?」

「この前、オレンジ色のゴルフボールを買った」

「購入した物の報告じゃなくて」

父はそのまま黙ってしまった。電話では埒が開かない。直接会って探るしかないか。しかしながら田舎に帰るタイミングがない。タイミングというより、時間がない。別に仕事が忙しい訳ではないけれど、家を離れることができない理由がある。
行けるとしたら娘を遅い昼寝で寝かし付けてから出発し、深夜か翌朝までに戻るしかないか。夕食を一緒に食べるくらいしか時間がないだろうな。
それでもいいか。

「無理して来なくていいぞ」と父は言った。

やっぱりかわいげがない(苛)!!!

◇◇◇

「パパ、見て!見て、パパ!」

娘が私を呼んでいる。私にパパと呼び掛ける。

私もこうやって父に呼び掛けたのだろうか。

お風呂で父のほくろの場所を教えてあげたのだろうか。発見できる自分自身を見て、と天真爛漫な自己肯定を、承認の欲求を父に向けたのだろうか?

「見て、見て、私を見て!」

娘が私を呼んでいる。

この世に生まれてきた喜びを、今この瞬間を生きている喜びを、全身全霊でまっすぐこちらに投げ掛けてくる。キラキラした目で私を見つめている。

もし娘に「何か欲しいものある?」と問い掛けられたとしたら、

「何もいらない」とやっぱり答えるかもしれない。

「生まれてきてくれただけでいいよ。もう十分」なんてね。
そんなもう古来百万回もこすられてきたような月並なセリフしか思いつかないかもしれない。
月並だけど本当だ。

本当に、そう思う。

「居てくれるだけでいいよ」

かわいげがない、そう娘に言われるかもしれない。

二月に入り、季節が一巡りしたことを実感する。風があたたかくのびのびする。
ベランダにテーブルと椅子を出して娘と二人で遅いランチを食べた。

二月の午後の空が好きだった。

雲がわき立ち大きくなって空半分に広がり、裏側に隠れた太陽の光のせいで輪郭が金色に光輝いている。
子どものころからギリシャ神話の空と勝手に呼んできた空。
あの雲の向こうからペガサスに乗ったペルセウスや神話の英雄たちがやってくるようなドラマティックな空である。学生時代もそんなことばっかり妄想していた。自分のほくろの位置には無頓着なのに。

「ベランダで食べるの好き。幸せ!」と娘が言った。

「幸せ」という言い回しが面白く私は笑った。

「本当だね。幸せだね」

カセットコンロを持ち出して夕べのカレーを温め直して食べた。クミンとカルダモン。さわやかな香りが春にぴったり。

ワインを飲んで………。

今、このときを生きている。

 

 

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