土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)
自分の人生を思い起こしてみると、それぞれの時代に友人がおり、酒場がある。
長く続いている親交があるし、長く通っている酒場がある。ウイスキーの30年物に価値があるのは、長い時間熟成しているから。
友人の場合も同じ。
親交が長く続いているのは、それだけの理由がある。何十年も通っている店にも私なりの理由がある。どちらも再生産ができないのは、ウイスキー30年物と同じ。
こんなことを考えながら、まずは、友人のことから書いてみる。
5歳までは、隣の家まで何百メートルも離れているという田舎住まいだったので、友人などいなかった。
5歳になって仙台に移り住んで、近くの聖ドミニコ幼稚園に行くようになり、初めて友だちができた。
吉田滋彦ちゃん。友だちといっても、顔と名前が一致する同年代の男の子というだけの話である。
幼稚園では滋彦ちゃんにいじめられていて、登園拒否を起こすほどであったのだから、本当は友だちなんていいたくない。
それから9年、吉田滋彦君と仙台二高で再会した。「幼稚園で俺はお前にいじめられてたんだぞ!」と私が言うと「何を言うか。俺が浅野にいじめられていたのだよ」と吉田君は真顔で言う。
吉田君とは、その後、何の親交も結ばなかった。風の便りに、どっかの医学部を出て医者になったと聞いた。
幼稚園ではもう一人いる。黒部燿子ちゃん。友だちとはいえない。
遠くで眺めて、かわいいなと思っていただけの子。ものすごく淡い淡いものだが、これが初恋だったかもしれない。
幼稚園での記念写真に写っている燿子ちゃんは、目鼻立ちのはっきりした子で、5歳にして美人になる運命を背負っていたようだ。
仙台市立木町通小学校に入学してからは、友だちがたくさん増えた。
堀籠綾子先生の1年4組は生徒数60人超。クラスメイトが全員友だち同士のようなものだ。
今に至る友だちができたのは、3年2組鈴木利子先生のクラスになってからである。その時のクラスメイトは、6年2組まで変わらずにクラスメイトだから、付き合いが長い。
その中でも、佐藤四郎くんと堀江喜代彦くんとは特に親しかった。
佐藤四郎くんは同じ「しろー」だが「しろーちゃん」と呼ばれており、私は「アサポン」だった。
ちなみに堀江くんは「ちょんちゃん」だった。こういった呼び名が通用するのは、ごく親しい間柄だけでのことである。
友だちとは別に、6年2組のマドンナは、東京から転校してきた山崎百合子ちゃん。
今は知事公館になっている児童会館の庭で百合子ちゃんたちと遊んだのを思い出す。
♬おさななじみの想い出は青いレモンの味がする♬(おさななじみ永六輔作詞)
仙台市立第二中学校には、木町通小学校と立町小学校の卒業生がやってくる。立町小学校から来た髙橋治直くんとは、1年4組のクラスで座席が隣同士になったので親しくなった。
最初の試験で私が百点をとったのを見て、治直くんは「浅野くん、見損なったよー」という。いつもふざけてばっかりいた私のことを「出来悪」と思っていたのである。
治直くんは「見損なった」と「見直した」とを取り違えて使っていたことが後からわかった。
中学校では、私は「出来悪」とばっかり遊んでいた。木町通小学校で一緒だった小野寺昇くんもその一人。
学校の成績とは関係なく、昇くんは愉快な奴だった。周りの生徒をしょっちゅう笑わせていた。アダ名をつける名人。女生徒ばかりほぼ全員にアダ名をつけていた。
そんな昇くんに私はあこがれていた。人を笑わすのは一つの才能である。私も真似してふざけまわっていた。
この性癖は、今日までひきずっているような気がする。友だちの影響はとても強いのである。
3年12組では、友だちではなく、マドンナに出会った。長谷田玲子さん。一目惚れである。
その頃は教室に貼ってある時間割表が一日、一日見えにくくなっていた。近眼の始まりである。そして一日、一日長谷田さんへの思いが募っていった。恋の始まりである。
彼女とは、一度も言葉を交わすことがないままに、卒業式を迎えた。
◆プロフィール
浅野 史郎(あさの しろう)
1948年仙台市出身 横浜市にて配偶者と二人暮らし
「明日の障害福祉のために」
大学卒業後厚生省入省、39歳で障害福祉課長に就任。1年9ヶ月の課長時代に多くの志ある実践者と出会い、「障害福祉はライフワーク」と思い定める。役人をやめて故郷宮城県の知事となり3期12年務める。知事退任後、慶応大学SFC、神奈川大学で教授業を15年。
2021年、土屋シンクタンクの特別研究員および土屋ケアカレッジの特別講師に就任。近著のタイトルは「明日の障害福祉のために〜優生思想を乗り越えて」