私は幼い頃からあまりにも医療からの身体への介入を受けてきた。曲がった足の骨をまっすぐにすることが良いことだと6歳の時に大きな手術を両足にした。その時には、私の意思は聞かれることはなかった。ただ、母親が医師の決定を聞いて泣いているのが自分のせいに思えて、なんとかしなければと思った記憶がある。手術がどれだけ痛いか、当然ながら母の方がよくわかっていた。
母は私が「手術をしてもいい。」と言うと、手術の前に東京タワーに連れて行ってくれた。その頃、東京タワーはできたばかり。東北には新幹線は全く走っていなくて、急行列車で片道4時間はかかった。母親にとっては、東京での一泊旅行、お金のことや、兄や妹のこと、それらの段取りはどんなに大変なことだったろう。
にもかかわらず、お土産屋の前で、拗ねて怒っている私の写真が残っている。母は兄と妹を祖母に預けてきたことを可哀想に思っていた。私だけを連れて長旅をした罪悪感を晴らすためにも、彼らに私よりもいいお土産を買おうとしたのだ。
ところが、そのことに全く思いの至らない私は、「私も同じお土産が欲しい。」と言い張って、癇癪を起こした。それを見ていた東京の親戚が呆れて写真を何枚も撮ったのだった。母は痛い手術をしなければならない私が可哀想で、多分お金を借りてその旅行に連れて行ってくれたと思う。
はじめての手術は、想像を絶する痛さだった。それまでも何回か骨折をしてはいたが、骨折の場合は骨が折れた1箇所だけが痛い。しかし、その手術は曲がった骨を3箇所切って、骨を回転させ、骨の側に棒を入れるというものだった。
その上、骨を包んでいる筋肉や皮膚も12、3センチ以上切られた。その手術中はもちろん全身麻酔をされるから、そこでの痛みはない、ということになっている。しかし、命に別状があるわけではない理不尽な手術。その痛みと屈辱の記憶は身体の隅々にまで刻印された。医者や看護婦は、「麻酔があるのだから、手術は痛くないし、終わっても痛くないはずだよ。」と小さな私をからかって嘘を言い続けた。
全身麻酔から目覚めてからの気持ちの悪さと痛み。その上、傷の感染を防ぐためと称する様々な注射や点滴。ギブスでの拘束。6歳の私は、眠れぬ夜を耐えなければならなかった。そうした日々の結論は、「大人は全く信用できない。」だった。
私は激痛の中で、徹底的にそれを学んだ。その学びの中で、13歳の時に現代西洋医学、特に整形外科治療との訣別を決めた。医療が本来的に命を助けるものであるなら、私がされてきた治療は全くそれに反していた。つまり、障害のない人の身体をスタンダードとしている社会。そこに私の曲がった足を切り刻んで、形を合わせるということが治療と呼ばれていたのだ。身体の痛いという声は全く無視されて、そのあとも何回も手術をされた。
その治療は、虐待とか拷問よりさらにひどいものだった。なぜなら、虐待者や拷問をしてくる人間には、社会はそれは犯罪であるという認識を持ち、それを止めようとしてくれる。虐待者に、感謝や称賛はあり得ない。ところが、整形外科の医者たちはメスをふるっても、肉を切り裂き、骨を切り刻んでも、感謝と称賛を社会から得、それを何度と繰り返しても罰せられることは全くない。
優生思想を母体とした西洋近代医学の恐ろしさ、理不尽さ。それを私は、自分の身に引き受けて徹底的に学んだ。14歳になってすぐ、私の愛読書は『家庭でできる民間療法』という本になった。そこにはありとあらゆる民間で継承されてきたさまざまな知恵が書かれていた。その当時、父は膝の痛みで悩んでいた。医者に行けば注射で膝に溜まっている水を取られた。その時には痛みがなくなるが、すぐに元に戻ってしまう。
私はその本から学んで、にんにく灸を彼に毎晩してあげた。2、3週間して、彼は私を我が家のホームドクターと呼ぶようになった。その後、私も自分の背中の痛みに生姜湿布を試したり、時には庭の土を掘って、両足をくるぶしまで埋め込んでみたりもした。
私が自分の身体でよく乗り切ったなと思うことはいくつもある。中でも、33歳の時の高熱1週間はハイライトの記憶だ。医者に行かないで治すというのは、発熱する前からの決断だった。看病してくれた友人たちも、私自身も、あまりの高熱で、一瞬不安にはなった。
しかしそれでも、脇の下に豆腐パスタを貼ったり、梅醤番茶やりんご葛湯をたくさん飲んだり、いろんな療法を試して、ついに回復。その時の達成感は半端なかったから、その後も発熱して、医者に行くことは全くない。
小さい時から中耳炎がよく起きたが、これは10代になってからは、全部「雪の下」で治した。これは名前の通り、雪の下でも枯れることのない逞しい草。その、すりおろし液を脱脂綿に吸わせて、耳に入れる。これは本当によく効いたから、娘が中耳炎になった時にもよく使った。
そのほかにも、自分の身体に良いと思われることは次々にトライした。ユニークなものとして、30代半ばに出会った飲尿療法がある。これは父の肺癌の痛みの軽減のためにと父にお薦めしたものだった。しかし、実際には私の身体にもよく効いた。ホルモンに影響して、身体の調子を整えるという感じがあって、娘を思いがけず妊娠したことの遠因でもあると思う。
最近、私が私の人生の中で、最もリーダーシップをとり続けたのは自分の身体に対してであるとしみじみ自覚した。ついては、それらの知恵や情報を分かち合える限り、分かち合いたい。そして医療との対等な関係を一人一人が築くこと。本来の医療は、一人一人の身体のリーダーシップを徹底的に尊重して、サポーターに徹するものであるはずだ。ご質問ご意見があれば、どんどんいただきたい。
◆プロフィール
安積 遊歩(あさか ゆうほ)
1956年、福島県福島市 生まれ
骨が弱いという特徴を持って生まれた。22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。
著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。
2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。好評で再放送もされた。