「わからないこと」と向き合う
若い頃、文学や哲学、アートにはまった。
特に、当時さかんに紹介されていたフランス系のポストモダンの思想家であるジャック・デリダやジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコーらの書籍を、なけなしのキャッシュをはたいて買い込み、読んだ。
正直、ちんぷんかんぷんだった。
だから、訳者や紹介者が書いた解説書を読んだ。
それはある程度理解できた。
また原点に戻り、砕け散った。
なぜ性懲りもなく、この行きつ戻りつを反復したのか?
正直、50を超えた今、若気の至りという感じもしている。
最先端の思想家や知の巨人を理解できる自分に対するナルシスもあったのかもしれないし、それを理解することで自分自身の人生の見通しが良くなったり、新たなる変革と創造にコミットできるのではないかという期待もあった。
しかし、わからない文字を追い続けることの徒労と無意味感は否めない。
でも、もしかしたら、この徒労かもしれないことに身を置き続けることや、無意味かもしれないことをやり続けることに、何らかの意味があったのかもしれないと思うようにもなった。
ケア現場でも、マネジメントや経営でも、不条理と感じる場面と出会うことはままある。
その時にすぐ出口戦略を求めず、しばらくは様子を見るという忍耐や気の長さは、意外と役に立っているかもしれない。そんな風に思うようになった。
わからないことと忍耐強く向き合い、そこに留まり続けること。枯山水にも似た何かが、そこに感じられる。
株式会社土屋
代表取締役 高浜敏之
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