【異端の福祉 書評】「異端の福祉」を読んで―私達は何者なのか― / 月岡真紀(ホームケア土屋 かながわ)

「異端の福祉」を読んで―私達は何者なのか― / 月岡真紀(ホームケア土屋 かながわ)

この本を手に取って最初に目に入ってきた『「福祉は清貧であれ」の業界でタブーに挑む』という帯の言葉が、何故か心に引っかかりました。分かるようで分からない。この違和感は何だろう?その答えが見つかるかもしれないと思いながらページをめくりました。

まず意外で嬉しかったのは、高浜さんがボクシング人生から福祉の世界へ飛び込んだというお話です。私は子供の頃「あしたのジョ―」が大好きで、また自分も映像製作の仕事から介護を選んだので親近感がわきました。

そして高浜さんの、まるで苦難の道を自ら選ぶかのような生き方は、やはりストイックなボクサーらしいな、と感じます。一番心に響いたのは、障害当事者の新田さんが、自分の事より高浜さんを心配し泣いてくれたお話、また大変な事故に遭われた奥様がクライアントに愛をもらったこと。同じ経験をされたお二人の深い繋がりも感じました。

私は「ホームケア土屋」の最初の研修を受けた時に障害者の社会運動について学びましたが、改めて当事者の皆様やご家族、高浜さんを始めとする気高い人々の苦難の戦いがあってこそ、今お仕事をいただけているのだと深く感謝申し上げます。

「土屋」を立ち上げ、全国展開し拡大している高浜さんの行動力、手腕は凄いと思い、その一員として誇りなのですが、「利益追求」という普通の企業にとって当然の事が、福祉の世界では「異端」にされてしまう。

私にはビジネス論は語れないのですが、「福祉とお金」についてよく考えてみようと思いました。

まず「福祉とは」と検索すると、「幸せ、幸福。特に(公的扶助による)生活の安定や充足。また、人々の幸福で安定した生活を公的に達成しようとする事」とあります。
私はこれを見て嬉しくなりました。(皆の幸せを作る、素敵な仕事なんだ!)

では「清貧」とは?「貧乏だが、心が清らかで行いが潔白であること」。でも「清らか」な人が「貧乏」でなければならないというのは納得がいきません。お金や物を持たない生活を好きで選ぶならともかく、殆どの人が「豊か」に暮らしたいと願うはずです。

物に溢れた世の中、あれも欲しいこれも欲しい、は人情ですが、本当は「心の豊かさ」を皆求めているのではないでしょうか。

とは言え、世界には飢えるくらい貧しい多くの人と、何百億、何兆もの資産を持つ一握りの存在がいて、こんなばかばかしい格差はおかしいとどこかで思っていても、とりあえず社会のレールから外れたら生きていけなくなってしまう…

「清貧」の裏にはお金や富に対する不公平感、恐怖、罪悪感などのネガティブな意識があるのではないでしょうか。私自身、お金で苦労してきたので、心の中の恐れを認めざるを得ません。

でも、本来お金とは人間の発明した超便利なツールであり、良いも悪いもありません。要は人がどう考え、扱うか。欲と恐怖で使うのか、愛で分かち合うのか。社会を人間の体に例えれば、お金という血液が、ある場所では滞り血管を詰まらせ、末端には届かず壊死し病気になってしまうのか、必要十分な量が隅々まで行き渡り元気でいられるのか。

株式会社「土屋」の追求する利益とは、社員、クライアント、社会全体の幸せを目的とする、とこの本には書かれています。誰かが犠牲になる「清貧」ではなく、みんなで豊かに、幸せになろう。異端どころか、この理念こそ福祉の王道なのではないかと思います。

ここ数年間、全人類が見えない恐怖に怯え翻弄されてきました。私自身、この奇妙な、SF映画のような世界で(自分は何者なのか)を問い続けてきました。恐怖の正体は何なのか。突き詰めれば、それは「死」だと思います。

人は誰でも絶対にいつかは死ぬと分かっているのに、何を恐れるのか。それは自分の心も肉体と共に消滅し、自分という存在が無意味になるという恐れではないでしょうか。

以前に、「心とは脳の作り出したものであり、肉体と共に消滅する」といった、うろ覚えなのですが、科学者の書いた本を読んで違和感を覚えた事があります。私たちが単なるモノでしかないのなら、目に見えない心になど意味はなく、目に見えるものしか信じない。「今だけ、金だけ、自分だけ」の生き方になります。

それでもどうして人は他人の心に共感し、涙を流すのでしょう。スピリチュアル、と揶揄されるかもしれませんが、今「自分は何者なのか」を一人ひとりが自身に問う事が、人間社会にとって必要なのではないでしょうか。

高浜さんや、奥様のために泣いてくれた人の「愛」こそが私達の本質なのだと私は思います。そうであるなら、障害者と健常者の違いはありません。

サン・テグジュペリ「星の王子さま」の中に、王子さまと絆を交わしたキツネが(一番大切なものは、目に見えない)と言うシーンがあります。若い頃は分からなかったその言葉の意味が、今やっと理解できた気がするのです。

障害を持つ人は見た目で判断されてしまいます。私も無知から偏見がありました。これからは(小さな声を聞き)(見えない心を見よう)とする豊かな心の人間、介護士になりたいと思います。

私が土屋に入職してもうすぐ1年になります。重度訪問介護が何かもよく知らず、なぜか(ここならきっと出来る)とピンと来て、そのカンは当たっていました。支えてくださる仲間が優しく意識の高い人ばかりなのです。

実は、この高浜代表のご本は、同僚の小山さんが自腹で私にプレゼントして下さったのです!それから、資格を取るのは時間もお金もかかる事から無資格で病院や施設で働いてきたのですが、土屋で仕事を本当に丁寧に教えて下さった桑原さんに勧められて実務者研修を取りました。

とても勉強になり、取って良かったと実感しています。来年は介護福祉士を受験するつもりです。改めて、こんなステキな人達と働けて幸せに思います。ありがとうございます。

今は夜勤の仕事をしており、二人暮らしのクライアントと奥様に十分休んで頂けるよう努めています。夜が明けて、奥様がベッドの側らで「お早う」と微笑み、朝日の中、お二人が見つめ合っている美しい光景に思わず泣きそうになる程感動してしまいます。そんな時、自分の心が深い満足感で満たされるのを感じます。

「土屋」の仲間が全国にもっと増え、障害について社会の理解が深まり、人間が恐怖ではなく愛を中心に生きる本当の意味での福祉社会が実現することを願っています。微力ながら私にもお手伝いさせて下さい。これからもよろしくお願い致します。

以上

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