『引越随想集』【後編】 / わたしの

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

〈前回のあらすじ〉

引越しのために、重くて大きなマットレス一体型のベッドを粗大ごみ置き場までひとりで運び終えた私は、それができたことが信じられない気持ちでいっぱいになると同時に「無理だと決めていたのは自分だ」ということに気が付く。
挑戦する前から諦めていた自分自身を反省し「やればできる」「最初から無理だと決めてはいけない」と実感したあと、次のような言葉が脳裏に浮かんだ。

「無理だと思うから無理になる」

そこではっとした。

これって渡邉美樹さんのセリフだ!

渡邉美樹さんとは、みなさん御存知だとは思いますが、居酒屋「和民」の創業者です。
当時社長であった渡邉美樹さんが『カンブリア宮殿(MC:村上龍)』にて発言した内容が話題になりました。
話題といっても、どちらかと言うと非難が殺到したのです。
現在で言うところの「炎上」です。

それは次のようなやりとりでした。
(※『カンブリア宮殿』での渡邉さんと村上さん二人のやりとりをそのまま引用させていただきます)

渡邉「『無理』というのはですね、嘘吐きの言葉なんです。途中で止めてしまうから無理になるんですよ」

村上「?」

渡邉「途中で止めるから無理になるんです。途中で止めなければ無理じゃ無くなります」

村上「いやいやいや、順序としては『無理だから→途中で止めてしまう』んですよね?」

渡邉「いえ、途中で止めてしまうから無理になるんです」

村上「?」

渡邉「止めさせないんです。鼻血を出そうがブッ倒れようが、とにかく一週間全力でやらせる」

村上「一週間」

渡邉「そうすればその人はもう無理とは口が裂けても言えないでしょう」

村上「・・・んん??」

渡邉「無理じゃなかったって事です。実際に一週間もやったのだから。『無理』という言葉は嘘だった」

村上「いや、一週間やったんじゃなくやらせたって事でしょ。鼻血が出ても倒れても」

渡邉「しかし現実としてやったのですから無理じゃなかった。その後はもう『無理』なんて言葉は言わせません」

村上「それこそ僕には無理だなあ」

「途中でやめてしまうから無理になる」という渡邉氏の発言と直接的に結びついているのかどうかは分からないですが、その後働いていた社員が過労死するという痛ましい事件が起こり、和民は一躍ブラック企業の代名詞となります。

当時は私も渡邉さんの発言に対して疑いを持ってしまっていた記憶があります。

しかし、絶対に無理だと思っていたマットレスを運び終えたあと自分の実感から出てきた「無理だと思うから無理になる」という言葉が、渡邉さんのかつての大炎上を招いたあのセリフと重なっていることに私は気付きました。

「どういうことだろう?」

「もしかして、渡邉さんの言っていたことは本当だったのかもしれない………」

「いや、そんなわけがない」

「でも言ってることは同じようなことだ」

「どういうことだろう?」

と、しばらく私は自問自答したのです。

どういうことでしょうか?

みなさんはどう考えるでしょうか?

様々な解釈や批判はあるかもしれませんが、私は考えた結果、渡邉美樹さんの発言は正しかったのではないかという結論に達しました。

ベッドを運ぶことを最初から無理だと諦めたり、途中で投げ出したりしたら、それはやっぱり無理だったということになります。

「途中でやめるから無理になる」というのはある意味正しい。
「無理だと思うから無理になる」というのも正しい。

正しい。

正確に言えば「正しい、けれど」です。

正しいけれど、問題がひとつあります。

何が問題かというと、その言葉を誰が誰に向けて言うか、です。

「無理だと思うから無理になる」という正しさを他者に向けて言うということと、自分自身に向けて言うということは似ているようでいて大きな違いがあります。

他者から押し付けられる正しさと、実感を伴い自分の内側から発見される正しさ。

全然違います。

私は怠け者です。怠惰です。血の滲む努力とか、テンションギリギリまで頑張るとか、倒れるまで耐えるとか、熱血とか、根性とか、そんな言葉から程遠い人間です。ずっとそういうものから逃げてきた人間だと思います。

恥ずかしながら、何かゴールを決めてそれの達成を目指すということが苦手というのか、もともとそのような型を使って生きていませんでした。

成り行きまかせです。

だから損も、失敗も、遠回りも、後悔もたくさんあります(それしかないかも………)。

もしそんな私が「止めさせない、鼻血を出そうがブッ倒れようが、とにかく一週間全力」を強制されたとしたら、きっと「無理だと思うから無理になる」という考えには至らなかったと思います。

多分、折れていました。

散々ねじ曲がって生きてきたのですが、さらに「どうせ自分なんて」と腐っていたでしょう。真逆の結果が導かれていたと思います。

正しさは経験を伴い自分の中から見つけないといけないんです。

少なくとも強制されるようなことではないはずです。

ともに生きる社会を実現せよ。

津久井やまゆり園の事件のあと、共生社会実現系のポスターやチラシが行政から数多く発信されました。

共生社会の実現をみんなで目指しましょう。

それを目にする度に私は疑問に思っていました。

誰が誰に向けて言ってるんだろう?

その言葉を発しているのは一体誰だろう?

「みんなで」というけれどその「みんな」って誰のことだろう?

分かりませんでした。

ともに生きる社会を実現せよ。

これもある種、「正しさ」なのかもしれません。

きっとその言葉は「正しい」。

「正しい、けれど」です。

誰に向けて言うのでもなく、誰のせいにするのでもなく、他人事にせず、「わたしの」中から湧き出す正しさとして実感したい。
そしてその実感をもとにしながら「わたしの」こととして行動したい。

それしかないのではないかと思ったのです。

つまり、共生社会が実現するかしないかは他の誰でもないこの「わたし」が誰の指示でも、命令でもなく自分の主体的な気持ちに従って何を実践していくか、どう生きていくかにかかっているということです。

大袈裟な物言いになってしまいましたが、簡単に言うと、

私が、共生社会を実現したいと本当に思っているか。

私が、共生社会の具体的なイメージを持っているか。

私が、多様性を受け入れられるだけの心を持っているか。

などなど。

その自問自答です。

そう考えていくとかなり厳しい。

「わたしの」狭量さ、頑なさ、欲深さ、愚かさ、傲慢さ、偏見、嘘、見栄、それらが浮き彫りになります。

それでも、それでも………。

それが『わたしの』という(いろんな人の力を借りて)私がやっています行動の第一歩だった気がします。

おわり

 

 

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