全身麻酔から約1時間 後編 / 平田真利恵

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

私はその医師の発言で一瞬にして頭が真っ白になる。まさか、このような暴言を産婦人科の医師から言われるとは思ってもいなかったからだ。
これまで生きてきて自分が「身体障害者」であることで嫌な思いをした経験は少ない方だと思う。だが、この日ばかりは自分が障害者で生まれてきたことを呪った。

一緒に病院についてきてくれた介護者もあまりの出来事に何も言えず、診察室を出て病院の出入り口まで行き2人で号泣した。ショックが大きすぎて帰りのタクシーの中でも涙が止まらなかった。家に帰ってからも、医師から言われた言葉が頭から離れない。いつにも増して身体中に筋緊張が入ってしまい、呼吸困難になり本当に死にそうになった。

私が通っていた産婦人科は都立の総合病院で、今までにも数名の重度障害者の出産に携わってきた実績がある。初診の段階でも「出産を希望しない妊婦の受け入れはしない」という方針だった。妊娠初期から毎回の検診をこの産婦人科で受けていて何も言われてこなかった私は、当然この病院で出産もできるのだと疑わないでいた。

「出産しても子供を施設に取られる。こんなに辛い思いをしてるのに……子供と暮らせないなんて!」
私は完全にパニック状態。それまでの体力の消耗もあり、自分ではどうして良いのかわからなくなっていた。そんな日が数日続いたある日、私の介護をメインの仕事としていた介護者が「Nさんに相談してみては?」とアドバイスをくれた。

Nさんは、日本における介護保障運動の先駆者。ご本人も重度の身体障害者である。言語障害と四肢麻痺があり、足で床に文字を書いて介護者に読んでもらいながらコミュニケーションを取っていた。

まだ本当に在宅の介護保障制度が何もない時代、施設から飛び出し地域で暮らしながら同じ仲間たちや支援者たちと地道に行政と戦い、ゼロから今の介護制度の元となる制度をいくつも作ってきた人である。

私が上京するきっかけとなった障害者団体が、Nさんが委員長を務める組合に加盟していたため、以前から少しではあるが面識があった。それまで、あまりお話をした事がなかったが、他に頼れる人がいなかった私は、必死の思いでNさんに電話をかけた。

電話の内容を聞いたNさんは、車で片道1時間はかかる場所から直ぐに駆け付けてくれた。Nさんは行政との交渉時はとても眼光が鋭く戦いのオーラが凄まじいのだか、家まで来てくれて私の話を真剣に聞いてくれる表情はとても優しかった。

一通り話終わると、足文字で「大丈夫。子供を取られることは決してさせないから。」と言ってくれた。そして、すぐに病院や行政に連絡を入れ、様々な手続きの手配をしてくれた。その後も全国的な交渉がある中、Nさんは何度も片道1時間もかけて家に来てくれて、私に病院や行政との交渉のやり方を教えてくれた。

Nさんご自身にもお子さんがいて、昭和の男性でありながら介護者と積極的に育児をされてこられた経験があった。ある程度、病院とのやり取りが落ち着いたころNさんに言われた言葉がある。

「障害者が子育てするには介護者は絶対必要だよ。そのためには、どんなに辛くても介護者確保の交渉しなくては駄目だからね」

この言葉に私は、ハッとさせられた。昔から私は、無鉄砲なところがある割に頭でっかちで行動に出ないところがある。妊娠して苦しい中、理想の子育てや将来の夢を思い描く事があっても、現実には「今までの介護時間と介護人数でいけるかも」と甘く見積もっていて何の準備もしていなかった。

これから先、介護者1人で私と生まれてくる子供の2人分の介護をしなければならない。しかも、そのうち1人は本当に何も出来ない、ほんの少しでも間違えればすぐに命を落とす新生児だ。いくら母親である私の責任だろうが、仕事で入る介護者の肉体面・精神面での苦労は計り知れない。

障害者が1人で子育てをするには、普段の何倍もの介護者がいなくてはならない。そして、そのシフトを回す事のできるくらいの介護時間数(24時間)と信頼できる介護者と事業所がなくてはいけなかったのだ。

今思えば、産婦人科の医師があの日の私に「育児ができない人…」と言ったのも間違いではなかったと思う。あの時、Nさんが駆けつけてくれなければ医師の言う通り、介護者不足で育児が難しくなり、結局、子供を施設に預ける手続きをする事になっていたかもしれない。

その後、行政との交渉で育児するに必要な介護時間を出してもらえることになり、信頼のおける介護者と事業所のバックアップを得られることになった。そして、徐々に病院側にも理解をしてもらえるようなっていった。

なんとか妊娠期間を乗り越えて数時間前、帝王切開で無事出産することができた。しかし、全身麻酔での出産だった為、生まれた我が子の産声も姿も見ていない。そのせいなのか、身体の一部がなくなった感覚だけが残る。

あんなに息もできないくらい苦しかったお腹の重みが無性に恋しくなる。信用していないわけではないが、数ヶ月前に言われた医師からのあの言葉が不安を掻き立てる。

無理を言って病室のスタッフに早めに新生児室から子供を連れてきてもらうようお願いした。その15分後、初めての我が子との対面。見た瞬間、今までの事は現実だったことに安心した。

私は、不随意運動と筋緊張が自分の意志を妨げる中、我が子を抱きたい一心で左腕に全神経を集中させた。看護師から私の腕にそっと子供が乗せられる。まじまじと我が子の顔を見ていると何故かとても懐かしい気持ちになった。

「あぁ、そうか。この子は、9ヶ月間ものあいだ、私のお腹の中でどんなに辛い日も一緒に頑張ってくれたんだもの……」

子供を乗せた左腕からじんわりと体温が伝わってくる。その体温は、小さくてフニャフニャした外見からは想像がつかない程、大きく力強い。まるで、私に「私のこと、しっかり育ててよ!」と子供自身が言っているように感じた。

あのときから、私はこの子のママになり、介護者との二人三脚の子育てが始まった。

◆プロフィール
平田真利恵(ひらたまりえ)
1978年8月生まれ

九州宮崎で生まれる。養護学校卒業後、印刷関係の作業所に通う傍ら、様々なボランティア活動に参加。2002年、知人の紹介で東京の障がい者団体を知り上京。自立プログラムを経て一人暮らしを始める。
2007年、女の子を出産。介護者と共に子育てをしている。現在、依頼を受けてイラストを描きながらボランティアで地域の小中学校での講演活動を行う。

関連記事

TOP