土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)
東京に帰ってきて住んだのは、中野区上高田一丁目の公務員宿舎。
中央線東中野駅まで徒歩8分、地下鉄東西線落合駅まで徒歩5分。近くにはお寺が沢山ある。
明治・大正期に都心からこの辺にお寺が引っ越ししてきた歴史がある。万里子が通う昭和小学校は歩いて1分。いいところである。
ここには6年以上住んでいた。その6年間にはいろいろなことがあった。思い出がいっぱい詰まっている。
仕事については、上高田の宿舎にいる間に、異動の辞令を5枚ももらった。
児童家庭局障害福祉課長→社会局生活課長→厚生年金基金連合会年金運用部長→生活衛生局企画課長への異動である。一つ一つの職責ごとにたくさんの思い出がある。
ジョギングを始めたのは、上高田宿舎に入居してすぐの頃である。
ジョギングの習慣はそれから22年続いた。定期刊行物への連載の執筆、各地での講演が増えて、休日がつぶれることが多くなったのも、この宿舎にいる間のことである。
1993年(平成5年)10月末、ここで宮城県知事選挙に出馬することを妻に告げた。
宮城県知事選挙に出馬するかどうか迷っている時に、頭に浮かんだのは「負けたら親子路頭に迷う」の情景である。
出馬の時点で、公務員宿舎から出なければならない。負けたら、住むところがなくなってしまう恐怖感があった。
いろいろあったが、幸いにも選挙では当選を勝ち取り、宮城県知事として仙台に乗り込んで行くことになった。1993年11月21日のことである。
あてがわれた知事公舎は、前々知事の山本壮一郎さんが部長公舎として住んでいたところ。
山本さんは、その後、副知事→知事となったのだが、そのまま知事公舎となった代物である。
当時の資料では、宮城県知事公舎は、広さという点では、全国最下位となっている。他と比べなければ、私達家族にとっては十分に広いところである。
広くて素敵な庭もついているので、住むところとしては申し分ない。ここに3期12年住んだ。
知事公舎は、仙台市青葉区広瀬町にある。わが母校木町通小学校の学区内である。
この辺は、私の縄張りだったところだし、27年ぶりに戻ってきたという感じがした。東京の小学校3年生の途中で仙台にやってきた娘聡子は、木町通小学校に編入した。
3期目が終わろうとする頃の日曜日、副知事二人と出納長を知事公舎に呼んで、応接室で「次の選挙には出ない」と伝えた。
三人は、予想外の事態に取り乱していたのを思い出す。2005年(平成17年)私は知事を辞めた。
知事を辞めてからの新居は、仙台市青葉区片平1丁目のマンションの10階に決めた。
夫婦だけで住むには十分な広さ。妻はここのロケーションがいいのを気に入っていた。
地方検察庁、高等裁判所が近くにあり、東北大学キャンパスまで歩いて3分のところ。繁華街一番町の藤崎デパートには歩いて買い物に行ける。
ここには2年近く住んだが、就職先である慶應大学SFCへの通勤には難がある。東京に戻ろうということになった。
移り住んだのは、横浜市神奈川区六角橋1丁目。妻の実家を改築した一軒家である。
それまで平屋だったものを2階建てにした。そこに我々夫婦と妻の母(私の義母)の三人で住んだ。
妻の実家に同居する私は、「サザエさん」のマスオさん状態だが、そのことにまったく抵抗はなかった。なにしろ改築したばかりだから木の匂いがするほど新鮮な家である。
東横線白楽駅まで3分の交通至便なところ。終の住処としては申し分ない。
この家で一番気に入っているところは、書斎である。
大きな書棚と大きな机が作り付けになっている三畳にも足らない狭いところ。
この狭いところがいい。ここでエルヴィスプレスリーのCDを聴いている。仕事をするのも、ZOOMに出るのも、原稿を書くのもこの書斎。
大きなバスタブのある風呂場もお気に入り。
ここに住んで14年。引っ越しを重ねてきて、ここが21カ所目。私も妻もここで生を終える。
家に歴史あり。
私はこれまで住んだ20ヶ所の家の思い出にふけりながら、この世におさらばする。
◆プロフィール
浅野 史郎(あさの しろう)
1948年仙台市出身 横浜市にて配偶者と二人暮らし
「明日の障害福祉のために」
大学卒業後厚生省入省、39歳で障害福祉課長に就任。1年9ヶ月の課長時代に多くの志ある実践者と出会い、「障害福祉はライフワーク」と思い定める。役人をやめて故郷宮城県の知事となり3期12年務める。知事退任後、慶応大学SFC、神奈川大学で教授業を15年。
2021年、土屋シンクタンクの特別研究員および土屋ケアカレッジの特別講師に就任。近著のタイトルは「明日の障害福祉のために〜優生思想を乗り越えて」