重度訪問介護と平和~高橋修さんのこと~ / 安積遊歩

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

重度訪問介護が歴史的にどのように作られたのかを、私の観点で書いてほしいと言われ考えた。歴史は人によって作られる。この制度の始まりには数人の諦めずに闘った人たちがいた。その中の1人である高橋修さんのことを書いておきたい。

彼は新潟県長岡市出身。先天的に手足の関節が十分に動かないという体で生まれたために、30代くらいまで家の中の隅っこの部屋に閉じ込められていたという。彼の父は仕事で社会的に成功していたために、彼の存在を恥じ、学校にはもちろん人前にも出てはならないと言われて育った。彼の母はそうした父親の対応に真っ向から反旗を翻すことはできなかった。しかしそれでも彼女は父親に隠れて彼を可愛がることをやめなかった。食事だけではなく読み書きを伝え、簡単な計算も教えた。

彼の幼少の時代を綴った子供向けの本がある。その本によれば、彼の記憶の中では何度か母親におんぶされながら、踏切のところで母と子で呆然と電車を眺めているシーンがある。彼は幼いながらも母親の苦境を察し、電車の轟音も踏切の鳴る音も全く楽しめず、母親に「早く家に帰ろう」と促すことが精一杯だったという。

30代の半ばで父親が亡くなり、彼は単身、東京に出ようと決意。母親の心配を振り切って十分に動かない手足ではあったが、それでもそれを最大限に駆使しながら印刷の仕事をした。そして彼のバイタリティと社会正義を求める行動は障害を持つ人の権利の確立に向けて邁進していった。

私は1985年に東京に出たが、その頃には彼は既に立川に住んでいたと思う。私は八王子にCIL(自立生活センター)を作りたいと言っていた中西さんに誘われて、日本で初めての自立生活センター「ヒューマンケア協会」の創立に参画。その頃、高橋修さんは脳性麻痺の新田さんたちと一緒に「介助料要求者組合」を作り、その活動をしていた。それと同時にエレベーターの無かったほとんどの駅にエレベーター設置を求めて果敢な運動も展開していた。毎週日曜日の朝、10年間、エレベーター設置を求めるチラシを立川駅前で仲間達とまいていた。その話を聞いて、私も国立からヒューマンケア協会に通う電車の中での14分間に、八王子市役所へのエレベーター設置要求のハガキを週に3、4回は書きまくった。

彼のすごいのは駅との交渉をまるで諦めないことだった。差別的な対応をした駅では必ず駅長室まで乗り込んで、その駅が差別的な対応をしたということで謝罪を要求し、それを文章化させるまで徹夜も座り込みも辞さなかった。私も福島県の平駅で私たちに対して、実に見下し差別的な対応をした駅長に謝罪を要求し座り込みをしたことがあった。しかし私たちは丸一日半座り込みをしても尚、謝罪文を書かせるには至らなかった。だから彼が随分多くの駅から謝罪文を勝ち取り、それをファイルしていたと聞いた時は本当に驚いたものだった。

彼は数字に関して卓越した能力を有していた。それは数字を暗記する能力であり、暗算の能力でもあった。長く長く家の隅に追いやられての生活の中にただ1人だけ彼に近づいた他人。その人が証券会社の社員であったために、彼はその人から株式を学び、ラジオでさまざまな数字を記憶するという能力を発達させたのだという。その能力は国の全体の税収や福祉の予算、都や市町村の全体のそれや、また障害者や教育、医療など配分された数字の細かなものまで全部頭に入っているかのようだった。行政交渉の場で役人たちがもたもたと資料を繰っている側で、彼が頭に入っている予算の数字をとうとうと告げながら配分の平等性を追求していく様はいつも圧巻だった。

彼の障害者運動に果たした業績はいくつもいくつもあるが、中でも24時間365日介護を立川市に認めさせたこと、そしてそれを全国の制度にまで広げ発展させていった人として、私の中では彼こそがその功労者であったと思っている。

彼は男性社会で物事がお酒の席上でかなり決まっていくということを見抜き、行政交渉の場では厚労省の官僚や市役所の役人とかと対等に激しく闘っていたが、その場を離れると人間的な付き合いということにも様々に努力とコミュニケーションを図っていたという。全国で初めて立川市に24時間365日の介助料の支給を認めさせたお祝いの日に、彼が深々と立川市の議員や役人に頭を下げるのを見た時には、私は心から驚いた。民主主義のあり方からすれば、彼こそが頭を下げられるべき人であるにも関わらず、社会の常識に沿っておくところは沿っておこうという、その柔軟性。そして役人であっても人間であるというその彼らへの理解と愛情に私は一抹の感動すら覚えたものだった。

彼は私が広めていたピアカウンセリングの場にも障害を持つ男性としては珍しく熱心に通ってくれた。障害を持つ男性たち、特にリーダーたちは中々にピアカウンセリングを自立生活運動を広めるものとして使ったが、自ら率先してやろうとした人は少なかった。しかし彼は違った。彼はピアカウンセリングを誠実に学び、障害を持つ男性の間にも広げようとしてくれた。どの運動の分野でも最先端に立ちながら決して権威を振りかざさず、運動の中でもその障害のために時に仲間外れにされそうな人たちの話には耳を傾け、差別的な人々には激しい怒りを露わにした。

重度訪問介護が介助の根幹になければならない愛情や柔軟性や、最も小さな声に耳を傾けることの大切さを内包しているものになっているのは、その創立の最初にあまりに人間的な彼がいたからに違いない。

彼の死後、彼の追悼集会には1000人を超える人が集まった。しかしその人数もさることながら、もっと驚きだったのは彼のお葬式を私たちがやりますと強固に言ってくれた2組のグループが現れたこと。ひと組は新潟県の実家の人々だった。それは理解できたが、もうひと組はキリスト教の教会の人たちで、これは本当に身近にいた仲間や友人もほとんど知らなかったことで、仲間内で顔を見合わせたことを覚えている。

彼は重い障害を持って生まれたことで父親から非情な差別に合い、母親にはその身体を30代まで世話されなければならないという過酷な家族介助を体験しなければならなかった。そこで学んだ様々な悲しみや苦しみを力に変え、そこで得た知恵や愛情を重度訪問介護という形で仲間達と分かち合ってくれていると私は思っている。

 

◆プロフィール
安積 遊歩(あさか ゆうほ)
1956年、福島県福島市 生まれ

骨が弱いという特徴を持って生まれた。22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。

著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。

2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。好評で再放送もされた。

 

関連記事

TOP