友だち/お店に歴史あり④ / 浅野史郎

土屋ブログ(介護・重度訪問介護・障害福祉サービス)

1993年(平成5年)11月、私は厚生労働省を飛び出して、宮城県知事選挙(出直し選挙)に立候補した。相手方の候補は前副知事の八木功さん。

県議会の主要会派(政党)の推薦を受けている。経済界、医師会、建設業界など各種団体はこぞって八木さんを支援している。

こちらは、カネなし、知名度なし、時間なしの状況。「浅野に勝ち目なし」と見られていた。

選挙対策本部(選対)もない中で、事実上の本部長の芳賀孝和君が声をかけたら、一・八会のメンバーが集まってきた。

一・八会は、1966年(昭和41年)に仙台二高第18期で卒業した同期会である。隔月ごとに仙台市内の居酒屋<樽>の二階座敷に2、30人が集まって飲み会をしていた。

芳賀君のもとに集まってきたメンバーは、2、3日の短距離走のつもりで思い切りダッシュし、そのまま17日間の選挙期間中全力疾走をし続けてしまった。

なぜこんなに一生懸命になって私を応援してくれるのか。選対で中心的役割を担った菊池繁信君が答えてくれた。

「浅野が立候補を決断したのは凄いと思った。俺にできるのは身体を張ることだけ。カネもないし、組織も持ってない。選挙に勝てるかどうかわからない中で、俺ができることは全てやる。一生に一度のチャンスをくれた浅野に感謝する。俺はできるだけやってみようと思った」。

素人による選挙だったので、選対の事務所に「選挙のプロ」の姿はない。代わって加わってきたのは、小学校、中学校の同級生たち。

「毎日がクラス会のようだね」と言いながらお手伝いをしてくれた。地元出身の候補者(私のこと)だからこそ、こういったことができる。

♬おさななじみの倖せにかおるレモンの味だっけ♬

知事時代、慶応大学SFC教授時代、神奈川大学教授時代の友だちの顔は思い浮かばない。仕事の場で友だちができる環境ではなかったからだろうか。

知事時代に一緒にお酒を飲んだのは、歴代7人の知事秘書だけ。秘書とは友だち関係にはなりにくい。

大学時代は、ゼミの学生との飲み会をひんぱんにやっていたが、30も40も齢の離れた学生ではじいさん先生の友だちにはなれない。

今は、いつ友だちになったのかわからない仲間と四人会をやっている。以下、四人会のメンバーを紹介していこう。

残間里江子さんは、厚生省年金局時代、35歳の私がテレビ局に押しかけていったのが縁で友だちになった。

残間さんは友だちづくりの名人であり、しかもそれぞれの友だちと密接な関係を保っている。どうしてそんなことができるのかと感心している。

自分のことを「人たらし」と言っているらしい。いい性格だ、うらやましい。

寺島実郎さんは、当時県立宮城大学の学長だった野田一夫さんに紹介されて知り合った。

東京出張の折に、宿泊した赤坂プリンスホテルのレストランで朝食を摂りながら寺島さんの話を聞かせてもらう。

政治のこと、経済のこと、国際関係、まるで講演のただ一人の聴衆のごとき心地で聴いている私。

博覧強記、寺島さんは知の巨人である。寺島さんは私のことを過大評価している。だからこそ先生と生徒という関係ではなく、私とは対等の友だちという意識でつきあってくれる。そんな寺島さんを、私は恐れ多くも「わが友」と呼んでいる。

生島ヒロシさんとは、知事時代になんかの会合で知り合い、すぐに友だちになった。気仙沼出身の宮城県人、同郷の誼ということもある。

TBSラジオで「生島ヒロシのおはよう一直線」を始めた頃で、私は不遜にもいろいろアドバイスをしてあげた。

東京出張の折には、赤坂プリンスホテルからジョギング姿でTBSまで駆けつけた。「呼んでもないのに、またまた浅野さんが来てしまいました」と言いながらも、出演させてくれた。生島さんは、気のいいおふざけ仲間である。

残間さんも寺島さんも、「おはよう一直線」にレギュラー出演している。ラジオ番組仲間ということにもなるか。

四人会はコロナ禍で、この2年開催できないでいる。コロナが収まったら、すぐにでも開催したいと幹事の私は考えている。

◆プロフィール
浅野 史郎(あさの しろう)
1948年仙台市出身 横浜市にて配偶者と二人暮らし

「明日の障害福祉のために」
大学卒業後厚生省入省、39歳で障害福祉課長に就任。1年9ヶ月の課長時代に多くの志ある実践者と出会い、「障害福祉はライフワーク」と思い定める。役人をやめて故郷宮城県の知事となり3期12年務める。知事退任後、慶応大学SFC、神奈川大学で教授業を15年。

2021年、土屋シンクタンクの特別研究員および土屋ケアカレッジの特別講師に就任。近著のタイトルは「明日の障害福祉のために〜優生思想を乗り越えて」。

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